卒業生の声
2009年度卒業生文集

過去のOB・OGのメッセージはこちらです。


「無題」

池田 真央   


なかなか手がつけれなかった卒業文集。

他の4回生では語れない、私だけが語れることは1つだけ。
誰よりも多く悔し泣きしたことです。

私の短所はあきらめ癖です。
無理だと思ったらすぐ手を引いてしまう。
そのせいか18年間ほとんど悔しいって思うことはなかった。
でも恥ずかしいけどBHに入って、4回生になっても私は悔し泣き、しかも号泣し続けました。理由はさまざまだけど、根本は自分の未熟さゆえの悔しさでした。

はじめて泣いたのは、1回生の時はじめて行った森の秘密基地キャンプ。
2日目の夜に班の子どもの1人が熱を出した時、先輩の前で泣きました。
すごく苦しんでいて、ずっとその子の側についていてあげたかったけど、他の子もいるし、次の日もあるから体力蓄えとかないとダメだって考えてたら、何もしてあげられない自分に腹が立って泣いてしましました。恥ずかしい思い出です。先輩方すみませんでした。

2回生の熊野×満喫キャンプの時も大泣きしたけど、ここでは色々問題なので割愛します。関係者のみなさん、あの時は本当に申し訳ありませんでした。

3回生では、岩美キャンプ。三田キャンパスと誰もいないフリスペでも泣きました。
この時は皆さんも経験あると思いますが、チェックが全然通らなかったんです。卵、乳製品、小麦を一切使わない自炊企画書を担当していたんですが、キャンプの前夜まで通らなかったかな(笑)この時はBHで活動していて1番自分に悔しかった。当然だけど、子どもの命に関わる食事だから誰かが手を抜くことなんか絶対許されなかった。わかってるのにチェックが通らなくて、自分に悔しくて泣きました。最後までつき合ってくれた本部、派遣、職員だった章雅さんには本当に感謝しています。

4回生で泣いたって話は割愛します。恥ずかしいからね(笑)

泣いた話を紹介してきたけど、決して泣くことがいいなんて思ってません。泣いたのは良くないと思います。でも私が伝えたいのは悔しいって思えることは大切だよってことです。もちろん悔しい思いをしているってことは上手くいかなかったことがあるってことだけど、でも『もっとこうしたいとか、こうしてあげたかったとか、こんなはずじゃなかったのに』って思えたおかげで、常に全力を出すことが出来ました。

何回ももう無理だよって思ったけど、キャンプを待つ子ども達や大切な仲間や最後まで見守ってくれる先輩や職員がいたから、あきらめることが出来なかった。

私はBHで全然自分に満足出来なかった。
自分の未熟さを感じずにいられなかった。
それは素晴らしい仲間と先輩と職員に恵まれていたから。
子ども達との接し方、イベントの運営の仕方、人の気持ちを理解する力、後輩の育て方、前でしゃべる才能、気の配り方、人を明るくする力、ボランティアとしての考え方、社会を変えたいっていう気持ち…みんなはそれぞれ素晴らしい長所や考えを持っていた。
こんなにもたくさんの人を尊敬したことは今までなかったと思う。
先輩はもちろんだけど、同回生もかっこいい人ばっかりやった。
どうにかして追いつきたかった。そう思い続けれた4年間は本当に充実していました。

最後、どうして終わったらいいかわからないからメッセージ書きます。

4回生のみんな。
みんな、本当にかっこよかった。
みんなと一緒に活動できたことを誇りに思います。ありがとう。

後輩のみんな。
3回生、長いこと一緒にいたね。楽しかったね。先に卒業しちゃうけど、また遊ぼうね。
2回生、なんでBHで活動してるのかを振り返る時間を作ってね。何のために、誰のために自分は頑張っているのかがわかったら、活動の意味が変わってくるよ。
1回生、尊敬する人は誰ですか?誰もいませんか?私はたくさんいましたよ。ぜひ見つけてください。かっこいい人は実はたくさんいますよ。

職員のみなさん。
章雅さん、最後まで泣いてましたね。いつも気づかせてくれましたね。章雅さんがなんと言おうと、私にとっての派遣は章雅さんです。ありがとうございました。
頼生さん、イルカの時は本当にすみませんでした。あの時よりは成長したと思います。
若松さん、脇阪・勝野・安積、みちみ、岡田をこれからも見守ってください。お願いします。
荘平さん、私の大好きな総合事業局をどうかよろしくお願いします。
能島さん、BHで一生の宝物になる仲間に出会うことが出来ました。
みなさんのおかげで大満足の4年間を過ごすことができました。
本当にありがとうございました。



ぼくとブレヒューと時々学校

伊藤 晋太郎   


ボクの大学生活を振り返ると、本当に人の「縁」に恵まれた4年間だったと思います。
今は、本当にそれに深く感謝したいです。

今のボクがいるのは、ボクの周りにいてくれた仲間や先輩、後輩のおかげだと思っています。
なぜなら、そもそもボクに親身に接してくれた先輩がいなければ、BHに関わることもなかっただろうし、今の生活は新しい刺激のないまま終わってたんじゃないかと思うからです。振り返ると、当時新歓で松村さんと岩佐さんに声をかけられなければ、BHに関わることはなかったでしょう。更に言うなら、その2人がボクに親身に接することがなければ、和歌山の田舎体験キャンプに出会うチャンスもなかったはずです。
(あれは本当に愉しかったな〜…大変だったけど。)

まぁ、それがあったから、また新しい繋がりが得られました。
というのは、ボクがもう一つBHで頑張ったHEPの活動も、元はといえば和歌山のキャンプがきっかけだったからです。当時、一緒のチームに児玉さんという先輩がいました。その先輩が、ポレに関わっていたからやってみようと思いました。だから、こださんの存在がなければ、ポレと関わりを持つことはなかったでしょう。そして、よーへーさん、ごんちゃん、まるさん、ゆうた、かいちゃん…といったメンバーと繋がることはなかったと思っています。

これらはあくまで、ボクが実感する「人と人との繋がり」のほんの一例です。
4年間を通してみたら、どれほど今まで出会ったこともないような人たちに出会ってこれたことかわからないです。ふと振り返れば、そんな周りとの縁に感謝することばかりです。そして、そのようなステキな縁に恵まれたことに…その出会いを提供してくれたBHに本当に感謝をしています。

小学校から大学まで色んなことを学びましたが、一生懸命勉強したことは今ではすっかり頭から消え去っています。また、あれだけ頑張った部活でも、今となっては体力は衰えて甲東園の坂を登るのも億劫になっています。それでも当時と変わらずにあり続けるのは、辛苦を共にした仲間であったり、信頼のおける先輩・後輩であったりするのです。

これからもがんばる後輩たち、ぜひ周りの仲間と縁を大切に。そして、もう一つ付け加えるならば、そんな素敵でまだ出会っていない仲間との縁を掴みにいける前向きな行動力を持ってがんばってください。チャンスは自分の周りにゴロゴロ転がっているものです。少し勇気を振り絞って、それを掴みにいくか否かで人生は大きく変わるはずです。(これはボクもがんばっていきます!)

ではでは、みな様お元気で。心と体の健康に気をつけて。
また再会できる日を楽しみにしています。



『BrainHumanity卒業』

今川 明子   


『BrainHumanity』
私にとって人生で最も成長をもらった場所であり、私にとってこの大学4年間は人生の第3成長期でありました…

初めてBrainHumanityの門を叩いたのは大学1回の5月。ぐっちょんに誘われて一緒に説明会に行きました。
その時に説明して下さった鶴さん、隼人さんは本当にイキイキしていてかっこいいな、とときめいたのを覚えています。純粋に「楽しそう」な団体だなという気持ちが沸き上がり、ここで私の大学人生は開花するのだと胸を膨らませていました。

ウキウキ気分で行った初めての5月サタプロ。しかしここでまさかの事態が起こり、ボランティア保険に未加入であったためその日のサタプロ参加を拒否され、集合場所滞在時間が約5分というまさかの短さで帰らされる事に…悲しいやら恥ずかしいやらでトボトボ帰路に戻ったという苦い思いをした事や2006年8月にあった大規模キャンプ(秘密基地)の参加を企ててみたものの予定が合わず参加を断念したりと…BrainHumanityとの出会いは比較的早かったもののとことんご縁の無い私でありました。「もう、うちには縁が無いんだ…」と諦めていた矢先、またもやぐっちょんが誘ってくれました。

それは「ポレポレ社会体験」という不登校児童対象のデイイベントでした。

そのイベントとの出会いで私の『BrainHumanity人生』が始まったのです…

それからポレを中心に他のブレヒューイベントにも深く関わっていくようになりました。多くの大学生や子供と出会い、その貴重な彼らとの触れ合いの中で多くの色濃い経験と深い感動や感銘を受け刺激をもらいました。ただの「楽しい」だけの団体ではなく、私にとってBrainHumanityは様々な人の価値観に触れられ、自分を他人を真剣に考える事のできる場所となっていきました。
ブレヒューに熱中しすぎて睡眠時間を削られ学校の授業が疎かになったり、友達と過ごす時間がなくて話題についていけなくなった事も多々ありました。そんな時はブレヒューに関わる事を何度後悔したかはわかりません…。(笑)
でも、そういった経験の中にも人間故の深い関わりがあって、本気で大切にしたいと思える仲間に出会え、自分の考え方も変化し形成をしていってもらったと思います。

先輩へ
先輩が私にかけてくれた言葉、見せてくれた姿はいつもどこかで脳裏に焼き付いていました。今の私が在るのは先輩の存在があったからといっても過言ではありません。わからない事を優しく教えてくれたり、本気で話を聞いてくれたり、本気で叱ってくれたり…時には一緒にバカしたり、ふざけたりしてたくさんの楽しい時間を過ごしてくれました。そんな先輩に私は深く憧れを抱いていました。先輩みたいに優しくて熱い冷静な人になりたい…そんな思いを胸に、この4年間BrainHumanityに居残りました。

卒業生のみんなへ
共に過ごしたBrainHumanityでの時間は、本当にかけがえの無い私にとって最高の宝物です。本気でぶつかった事もありました。だけど、刺激し合える仲間であって、どこか通じ合えて、心地よく、落ち着く空気も与えてくれました。心強かった私はみんなと出会えて本当によかったです。
これからもどうぞ末長ーくお付き合い下さいませ。(笑)

後輩のみんなへ
卒業の間際までBrainHumanityにおいて後輩のみんなと関わる事が出来た事は本当に嬉しい事でした。私は本当に幸せ者でした。一緒にバカして付き合ってくれたり、こんなうちでしたが、それとなく慕ってくれて嬉しかったです。いつも声をかけてくれてありがとう!みんなから若い力をもらってうちは本当に楽しかったです。卒業しても遊ぼうね。(笑)

職員さんへ
4年間お世話になりました。BrainHumanityでの4年間は私にとって本当に色濃く非常に充実した日々でした。BrainHumanityは不思議な場所です。辛くて辞めたい、逃げ出したいと思っていても、しばらく離れると楽しかった事しか浮かんでこない。(これは私の性格の問題なのでしょうか…)BrainHumanityで、私は成長をさせてもらいました。このような場を作って頂き、見守って頂き、本当に長い間お世話になりました。
ありがとうございました。
また、遊びに来させてください!(笑)



海津 有希   


「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。」

これはレイモンド・チャンドラーの小説に登場する有名な台詞!らしいのですが、
私からするとこれは能島さんがよく言っていた言葉です。

BHで活動しているとき、私はしばしばこの言葉を思い出しました。

元々、弱虫で臆病者の私は石橋を叩きまくって渡る人間でした。
常に予防線を張り、できる限り安全な道を歩いてきました。

でもBHで活動をしているとそんなことは言ってられず、
特に3回生の夏に不登校生徒対象のマレーシアスタディーツアーを担当した際は
私にしては珍しく、石橋どころか吊橋を全力疾走したような感じでした。

一度同イベントを潰していたのでプレッシャーもあったし、
学校などプライベートも色々とあったのでそれなりに心的負担はありました。
実際に何か事を成すというのはけっこう力の要ることで、
そのとき、社会に出てからも強くなければやっていけないなと感じました。

一方、能島さんやよりおさん、当時の納豆のような事業部代表は厳しくも優しく、
常に非力な私たちの後押しをしてくれました。
冒頭の台詞とは少しニュアンスが違いますが、強さと優しさは表裏一体なのですかね。

そんなこんなでイベントに疾走した3回生の夏をはじめ、
4年間を通して、BHではこういった強さと優しさの種をもらったような気がします。

あくまで今は種ですが。
大事なのは今後ですね。
強く優しい人間になりたいものだ!

ほんとにほんとに最後になりましたが、
4年間どうもお世話になりました。
皆々様ありがとう!



加藤 依子(りこ)   


誰かのために、自分のために、一瞬一瞬を走りぬいた4年間。
誰かと自分の可能性を広げるための挑戦。

そのとき
自分が心からやりたいと思えたことに
自分がやらなきゃいけないと思えたことに
とにかく真っ直ぐにぶつかっていった。

今まで
こんなに相手のことを想って
頑張れたことがあっただろうか。

今まで
自分ひとりだけじゃなくて
誰かと一緒に
こんなに頑張れたことがあっただろうか。


自分たちのしたことで
子どもたちの笑顔を生み出せるということ。
自分たちの考えたことで
子どもたちの可能性を広げられるということ。

自分が心を開くことで
かけがえのない仲間が広がっていくということ。
自分が思いやることで
仲間の笑顔を守れるということ。


ここで私は、生きていく上でとても大切なことを沢山教えてもらった気がする。


BHにいると、
自分の無力さを、思い知らされる時がある。
自分の不甲斐なさを、受け止めなくちゃいけない時がある。
自分の弱さと、向き合わざるをえない時がある。

涙を流した分だけ、強くなれたわけじゃない。
がんばった分だけ、認められるわけでもない。
けど、それでもあきらめなかったら、
子どもの笑顔と、仲間の笑顔と、自分の泣き顔が返ってくる。
人生におけるかけがえのない瞬間と大切な仲間を、その手につかんでる。

これだから離れられない。
誰かのために始めたはずなのに、いつのまにか自分が沢山もらってる。それがBH。


BHでがんばってる私の愛する後輩たちに伝えたいこと。

自分の弱さを突きつけられたら、とりあえず思いきり泣いたらいい。
仲間が信じられなくなったら、とにかく思いきりぶつかったらいい。
自分も、相手も、みんなそんなに強くはできてない。
だから、一緒に創っていく。たったひとりで抱え込む必要なんてなにもない。

自分を責めるのも、仲間を責めるのもやめて、
共に苦しむ覚悟を、
共に笑う約束を、もう一度かわしてみませんか?

誰かのために成り立つBHにいるなら、
まずは隣にいる誰かを思いやってほしい。

弱い自分を責める前に、
誰かに「一緒に考えてほしい」って歩み寄ってほしい。

これが、私からの最後のお願いでもあります。
大好きなみんなが、このBHでこれからも笑顔で歩み続けられるように。

またどこかで、会いましょう(^^*)

最後に私が好きな言葉を載せておきます。
BHでずっと挑戦し続けてきたことは、きっとこんなことだったんじゃないかな。

『We cannot do great things.
私たちは大きなことをすることはできない。
But we can do small things with great love.
でも小さなことを大きな愛を持ってすることはできる。』
                        〜マザー・テレサ〜
                                



これまでと、これから

菊池 寛史   


ブレーンヒューマニティーに初めて関わったのは、2006年大学1年の夏、大学生対象のマレーシアスタディーツアーに参加したときだった。1年浪人して大学に入った私は、この4年間でやりたいことを絶対に見つけようと、気になったことはどんなことでもとことんやろうと考えていた。スタディーツアーのことを知ったときも、ボランティアなんて現実が見えていない平和主義者がやるものだと偏見を持っていたが、知らない世界を知らないままで終わらせるのはもったいないと思い、参加することにしたのを覚えている。
それ以来、ブレーンヒューマニティーでは、2007年の春、高校生マレーシアワークキャンプに実行総責任として、2008年夏には高校生フィリピンワークキャンプにスタッフとして関わった。その理由は、やってみると意外とボランティア活動が楽しかったからというようなものではなく、高校生の価値観を広げるということに魅力を感じたからだった。

私が高校生だったころは、ほぼ学年最下位の成績を取り続け、部活や行事はがんばるが、基本的には無気力に過ごしているというような人間だった。あの頃の私に、もっと違う世界を知る機会があれば、もっと話を聞いてくれる人がいれば、何をやってもうまくいかない日々から抜け出すことができただろう。そんな思いが、高校生に対しての活動ということに魅力を感じさせ、深く真剣に関わろうという動機になっていた。
そして今私は、東京の、NPOカタリバというところにいる。大学4年生の7月、起業を前提としたインターンシッププログラムに応募し、ここへ来ることになった。NPOカタリバとは、高校生に対してキャリア教育を行う団体だ。
ブレーンヒューマニティーで育んだ思いは、今も、ここにある。
そしてこれからも消えることはなく、私を支え続けてくれるに違いない。

10年後の、33歳の私は、何かを生み出すことができる人間になっているだろう。3年前のワークキャンプ報告書につづった文章が、今の信念とまったく変わっていないように、10年経っても、変わらないものがあると信じている。ただ、その道が、たくさんの人を傷つける道のりであったなら、その果てに、心を失って誰かを傷つけていることにも気づかなくなっているのなら、少し寂しいと思う。



ブレーンヒューマニティー

雑賀 雄太   


大学4年間が終わって感じていることをできるだけ自分に素直になって書いてみることにしました。いちボランティアがBHで関わってきて感じたこと・思ったことを徒然に書いただけのものです。そんな感じです。

4年間、ブレーンヒューマ二ティーと関わってきてこの組織が好きかどうか考えてみたときに、素直に好きとは言えない自分がいる。

この組織の一人ひとりは本当にいい人が多い。魅力的な人も本当に多いと思う。
ただ、僕は組織の在り方には疑問を持ち続けている。
その疑問は「人(ボランティア)が大切にされていない。」というところだと思う。
「人を育てる組織が人(ボランティア)を大切にしていない。」というパラドックスを抱えていると思うのだ。

この組織が社会から必要とされているかどうかというと間違いなく必要とされている。
しかし、社会をよくしたいと活動しているボランティアが大切にされていない現状があるように、感じてならない。
無論、社会的責任がある以上は、学生一人ひとりが責任を負い、しんどいこともしなければならないのが、だたその責任が「自己責任論」的発想の責任となっているように感じるのだ。皆、自分の責任を全うしようと努力していると思う。しかし、責任を全うすることが困難になったときに、他の人から手が差し伸べられないでどうしようもない状況に陥り、ブレーンヒューマニティーから去っていく・離れていくボランティアがいるのも事実だ。周りの皆が薄情だと冷たいとかを言いたいのではない。他の皆もまた自分の責任を全うすることで余裕がないということもよく分かる。

ブレーンヒューマ二ティーは完全なる分業型の組織である。各人がある特定の部分について責任を持ちそれを全うすることでこの組織は成り立っている。「自分の責任を遂行すれば良い。」との価値観が組織全体を覆っているように感じる。しかし、分業というのはあくまでやるべきことをスムーズに遂行するための「手段」に過ぎない。本来、組織というものは「チーム」であるべきだと思う。しかし、今のブレーンヒューマ二ティーは、「個人プレーの集合体」ではないかと思う。いわば、個人の能力は高いが相乗効果を感じることはあまりない。

よくある話だがわかりやい例えがある。
「個人プレーの集合体」では1+1=2にしかならない。
しかし、「チーム」になると1+1=2よりも大きい力になる。
「個人プレーの集合体」では、これからのブレーンヒューマ二ティーは見えてこないと思う。いかに、学生が主体となって「チーム」を作っていくことができるか。これが今後のブレーンヒューマ二ティーがよりよくなっていく鍵になるのだと思う。

もう一度言うが、これまでブレーンヒューマン二ティーから消えていった仲間をぼくは数多く見てきた。本当に辛いことだ。こんな思いをこれからのボランティアに味わってほしくはない。
極端な話にはなるが今の状態が続いていくのであればブレーンヒューマ二ティーはいずれなくなってしまうのではないかとも思う。
しかし、この状態を変えることができればブレーンヒューマニティーはもっともっとよい組織になる。お互いが一人の人間として必要だと感じあえる組織(チーム)になれる。

僕が一番、ここで皆に伝えたかったことは
「人を大切してほしい」ということだ。
大切に思うだけではなく、その気持ちをきちんと「伝え」、「行動化」することだ。
大事なことはシンプルだ。



住森 祐奈   


出かけようと玄関の扉を開けた瞬間、漫画みたいに突然雨が降ってきました。
なので締め切りが明日に迫った卒業文集を書くことにします。
けれども、いざ伝えたいことを書き出すとなると難しいですね。
どれを取り出せばいいのやら・・・
誰かがこれを読むのかと思うと妙に恥ずかしく
たいしたこと書けないので気後れしてしまいますが、ふんわり読んでもらえたらと思います。

こっぴどく怒られることも特別な賞を取ることもなく
平々凡々と階段をのぼった18年間は本当に幸せなことで
両親には心から感謝すべきなのですが
高校3年生の私は今までの自分がつまらないような感じがして
無難な道を選んでばかりいた自分を捨てたくて
まっさらな気持ちで嬉々として大学1年生になったのです。

そうしてBHに出会い、何かを掴みたい一心で
走ったりマイペースに歩いたり休んだりしながら3年ちょっと活動を続けました。
誰かのためじゃなくて自分のために活動しているんじゃないのか?
という思いがいつもつきまとい、戸惑った時もあります。
なんとも汚い気持ちでプロジェクトに関わっている気がしてならなかったからです。
ボランティアという言葉の響きにかこつけて、自分の成長を一番に望んでいるのでは?
という疑問がわさわさ取り巻いていました。
はたまた、企画書打ってて昨日徹夜やってんよー
と事務所にいる誰かに伝える自分を客観的に見て殴ってやりたくなりました。
恥ずかしいです。

そんな中で
子どもたちのために。参加してくれる人のために。
空気が溶けるような熱い思いとエネルギーを全身からバシバシ発しながら奮闘する
先輩や同じ学年の仲間、後輩から素晴らしい刺激を受けたことは貴重な財産です。
社会においても、あるプロジェクトという限られた環境においても
全体を見渡して今の自分ができることを先見的に考える。
尊敬する先輩におしえていただのですが、そうすることによって
自分はどんな人間で何ができるのか、できないのか。
そしてやりたいことは何なのか見えてくるような気がします。

多大な失敗と迷惑をかけながら
決断するということ、覚悟するということを知りました。
決断する時は必ず何かが犠牲になります。
私は自分の得を優先した決断をしてしまいました。
厳しく叱ってくれた先輩に心から感謝しています。
厳しく助言してくれた後輩に心から感謝しています。
懐の大きな仲間に心から感謝しています。

BHには色んな視点の人がいて
耳を傾けて、考えて、受け入れて、叱って、褒めてくれます。
できるかわからないことを、実現させようとする姿勢を学びました。

言われるまま進み、無難を選んできた私が積極的になれたことは自信に繋がりました。
自分で見つけた道を進む勇気を持てました。
でもやっぱりなんだか
自分の中で都合よく美化されているような気もします。
そこをうまく言葉にできないのがすこーし悔しい。

幸か不幸か、泡のような学生生活はまだ2年続きますが
そのモコモコで、せっせと磨き上げて
みんなと同じように胸を張って社会へ出られるように。



「HAPPY」

高階 有人   


正直、何を書けばいいのかわからない。マヌケな文章にだけはしたくないが、フォーマルな文章なんて滅多に書かない。しかもキャラ的にもかけ離れている。だいたい、今こうやって書き始めたのも締切5時間前である。
後輩たちに何かを伝えるなんて、僕にとってはおこがましい限りだ。先輩なんて意識が皆無で、いつも言っている通り「ベテランになれなかった4回生」のまんまだから。未だにサタプロとかでベテランらしい動きを求められると緊張したりする。

そんな僕だからこそ何を書けるのだろう。

はっきり言って子供は好きだけど大好きでは決してない。「しなはリーダー」って印象があるらしいが、この2年いつだって僕はスタッフ希望だった。ブレヒュに入った時期も2回生の春だ。何となく新しいことを始めようかと思い、キリスト教学の再履修でビラを貰ったから入ったのだ。

じゃあそんな僕が何でここまで続いたのかといえば、僕の場合は絶対に「人」の部分。みんなでバタバタと準備するのって素敵じゃないですか。「ヤバい」「間に合わない」「徹夜だ」みたいな切羽詰まった感じを共有するアノ感じとか。学園祭前の準備みたいなね。だからブレヒュで出来た友達って、仲間って印象の方が強いのかもしれない。それだけたくさんの時間を一緒に過ごして、何かと共有してきたからこそ、何か他とは異色な感じがするんだと思う。

そんな人との繋がりが楽しくって続けたのかなと。イベントに行けば、みんなに会えるし、話しかけてくれるし。キャンプで企画班に入れば、またそこで「てんやわんやな関係」が始まるわけで。いろんな人に囲まれて、僕はほんとに幸せだったなと思います。

そういう意味で言うと、僕が唯一本部を経験した「ポレポレ遠足2008」なんかは、まさにそれだと思う。
ポレ遠最終日の夜にmixiで日記を書いてるんだけど、上手いこと表してるなと思ったんで引用してみます。

「とにかく楽しませてもらいましたというのが純粋な思いです。夢見させてもらってました。僕ほんと当日とかグルグルまわって子どもやスタッフリーダーさんと喋り倒してたんで…もはや本部の仕事というより楽しみでしたよね笑。みんな真剣に子どもと向き合ってくれて…ほんと安心でしたもん。そしてみんな楽しそうで!!!それがとにかく見てて嬉しかったし幸せでした!!」

思い出しただけでも「よかったなぁ」って思う。いい気分になるね。

自重とかじゃなく、僕はほんとに仕事らしい仕事をしなかった実行副責任だった。だいたい米澤アスカとアヤカが実務をこなし、僕とフトシはその他雑用みたいな。だから仕事をいっぱいしてくれた2人には感謝してるし、フトシはフトシでイライラすることも多かったけど(笑)やっぱ必要な存在だったからね。
来てくれたスタッフ・リーダーもすごい楽しんでくれるし。何かとサポートもしてくれる。自分なりに頑張ってもくれる。みんなで「ゆるくてシュールで楽しいポレ遠」を作り上げてた感じがする。いろんな人に支えられ、本当に幸せな1年間だったんだなと。ポレ遠がある生活ってほんとに素敵だったし、そんなイベントに関われたことを誇りにさえ思う。


楽しいことは、みんなで発生する
楽しませてもらってるし、たぶん僕も楽しませてた。

だから、みんな、楽しめばいいと思う!!!!!!

いろんな人と、いろんなことを、楽しめばいい!!!!!!

僕は、まぁまだ社会人にはなれずに5回生になっちゃいますが
それはそれなりに楽しんでいこうかなと。

「いつかは想像を超える日が待っているのだろう」
大好きなくるりのHOW TO GOって歌の歌詞だけど
なんかワクワクするじゃないですか。
じいさんになっても、いろんな人と楽しんでいこうと思います。


以上。しなでした。
 おわり。



しあわせ

辰馬 舞   


 とうとうこの文集を書く日がやってきました。私もBH卒業なんですね。

 大学1年生の時、たまたま大マレの募集ビラと出会って参加したのが、私とBHとの出会いでした。ただの参加者で終わるはずが、まさかこんなに長いおつきあいになるなんて。自分でもびっくりです。

 ただただ、BHが楽しかった大学2年。初イベント、初副責。私のBH生活の始まりでした。何にも考えず、とりあえず毎日が楽しかったな、という記憶しかありません。派遣だった先輩に憧れ、誘われるまま事業部に入りました。「仲間」が出来たことが本当に嬉しかった。
 代表一色だった大学3年。想像以上に大変で、もがいた1年でした。事業部を背負う責任が重くて重くて、押しつぶされそうにもなりました。けど、周りの人の支えを本当に実感した1年だったし、実施承認の向こう側にいる参加者が愛しくてしょうがなくなりました。
 集大成を探し続けた大学4年。自分のゴールを、自分が初めて参加し、副責をしたイベントの派遣をすることに定めました。私を育ててくれた先輩、助けてくれた友達、お世話になった全ての人への感謝を込めて、派遣をしようと決めました。そして、最後は事業部と共に走り抜けました。
 
 ネガティブな言葉が浮かんできたら、イベントを待っている参加者を思い浮かべました。しんどいな、と思ったら、今までもらってきた参加者やスタッフの言葉を思い出しました。そうしたら、まだまだがんばれる、やれる、ここでくじけちゃいけないなって奮起することが出来ました。こんなにたくさんの人達に出会えて、「ありがとう」と言われることは、本当に幸せなことだな、と感じながら。
 自己満足って言われたらそれまでかもしれないけど、私たちは、確かに参加者に「ありがとう」「楽しかった」という言葉をもらえている。それでいいじゃないか、って思います。きれい事かもしれないけど、その言葉があるだけで人は頑張れるんじゃないかな。そして、そう思えるようになれたこと、そのことが嬉しいです。

 行き詰まった時、必ず誰かが手を差し伸べてくれました。
 寄り添ってくれたり、背中を押してくれたり、支えてくれたり。時には怒ってくれたり。
 こんなに私って守られてるんだと知って、人に対して感謝の気持ちを覚えられたのも、BHに入ったからだと思います。

 常務会で実施承認が通って総責がほっとした顔で会議室を出て行くとき、私も一緒にほっとして、 実施報告が通って総責の肩の荷が下りたような、寂しいような顔を見ると、私も肩の荷が下りて、少し寂しくなりました。
 シンクロしてくるくらい、私のそばにはBHがありました。学生生活のほとんどがBHでした。
 色んなところでたくさんの人に迷惑をかけました。謝っても謝りきれないくらい。犠牲にしてきたものもきっとたくさんある。でも、後悔はしていません。これまでの全てがあってこその私だから。


 4年しかない学生生活。人生で最後の自由な時間をここで過ごせて、たくさんの人達に巡り会えて、幸せでした。


 本当に、本当に、ありがとうございました。



田中 優希   



こんにちは。気づけば4回生。後輩からは先輩扱い、よく行くイベントではすっかり子どもの見知ったリーダーになり、東京行きまで後1カ月くらい。時が経つのは早いですね。
今は働きたくない気持ちでいっぱいです。

不登校関連事業部での活動を振り返って、自分は
真剣でなかった時もあります。
いろんなことに申し訳なく思ったこともあります。
コミュニケーション力の無さをひしひしと感じたこともあります。
ごめんなさい。

それでも、いつもみんな自分を必要としてくれました。だからこそ事業部の会計やポレポレイベントを長く続けることができた気がします。同じようにみんなも絶対だれかに必要とされています。それを感じられたら、このしんどくて、過酷で、つらいBHも続けられるんじゃないかな。

とまぁ、偉そうなことをちょっと書きましたが、ここからは個人的にお世話になった人たちへメッセージです!

事業部のみなさんへ
 しんどいね。たまにはみんなでご飯行こうよ。息抜きしましょうよ。そういえば広島の山口さん、僕をポレポレイベントに最初に誘ってくれたのはあなただよ。感謝。

後輩のみなさんへ
1,2歳の年の差で先輩面はしたくありませんが、君たちみんないい子だね。特に僕を先輩扱いしてくれた2009年度ポレポレデイイベント、ポレポレ夏キャンプ本部のみなさん、会計とか規定とかは僕の方が詳しいかもしれないけど、熱意では負けたなあ。みんな一生懸命だから。
ありがとう。

先輩のみなさんへ
 社会の荒波はどうですか?僕はまだ覚悟できていません。在学中からかわいがっていただき、ありがとうございます。特にNPO「今ヒマ会」のみなさん、また集まりましょうよ。どうせ暇なんだから。

職員、ワーキングチームの先生方
 本当にお世話になりました。Businesslikeな関わりが多かったですが、これからも機会あれば不肖ながら同じ社会人としてお付き合いおねがいします。また近況報告させてください。
 
途中みんな誰かに必要とされてますよ的なこと書きましたが、少なくとも僕はみんなのこと必要です!なんかこの場は「安心」できました。ありがとう!



西村 愛実   


気づいたら大好きな先輩たちがいなくなってて
気づいたらほっとけない後輩たちが成長してて
気づいたら友達がかけがえのない仲間になってた

長くて長くてあっという間の4年間
みんなのことが大好きでたまらないから、離れようなんて一度も思わずにここまで歩いてくることができました。
私に今まで関わってくれた全てのもの、人に感謝しています。
ありがとう。

4年もいると本当にいろいろありすぎたのだけど、やっぱり最後に思うのはサタプロのこと。

セブンイレブンの入り口というあり得ない場所で救護に誘われて断ったことも
小学校回りで不登校になり、春学期一単位しか取れなかったことも
教頭とか、はしかとか、台風とか、かみまくりながら架電しまくったことも
1ヶ月で4回サタプロしたことも
事務所で、ピカロで、ふじやで、帰り道で、泣きじゃくったことも
本気でケンカしたことも
徹夜MTしたことも
フリスペで4人川の字になって寝たことも
インフルエンザだと騒いだのに食中毒で休んだことも
ボラ保貧乏になったことも
救護なのに負傷して子どもに心配されたことも

今となってはぜんぶ愛おしくてたまらないんです。

あたしはサタプロで、
想いをかたちにすることの楽しさ、人を笑顔にすることの悦びを知って
自分を信じてあげること、妥協しないこと、仲間を心から信頼することの大切さを学んだ。

そして残ったのはたくさんの人に支えられていることへの感謝の気持ち。
たくさんのありがとうにできるだけ恩返しがしたくて、残りの2年間はなるべくたくさん、イベントに参加して、なるべくたくさんの人に関わってきたんだけど、結局あたしは与えてもらってばっかりだったな。

イベントを企画して、想いを伝えて、みんなを巻き込んで。
よく晴れた日の中芝で、この手とその手を結んだとき
ばらばらがきれいなひとつの円になったとき
5月と6月と7月と9月と11月と12月と2月と3月という点が
一年という線につながって
ちっちゃなピカロの壇上からふっと見渡したときの
言い表せないほどのそわそわと、妙な落ち着きの矛盾した感覚はずっと忘れないと思う。

もうきっと、こんなに天気予報を気にする4年間はやってこないんだろうな。


でもいつか、100人で食べたいな。
かぶとやまの上でおむすびを。



花元 香奈   


大学に入り、子どもと関われるボランティア活動がしたい。
そんなことを想いBHに行ってみようと思ったのが初めです。
1回生から3回生までほとんどバイトのように事務所に通うことになり、
終電も逃すこともありました。

「なんてキツイところなんだ」と初めは思いましたが、BHの活動の中では
たくさんの出会いがあり、たくさんの仲間ができ、たくさんのことを学んできました。
今では本当にBHでボランティア活動ができたことを感謝しています。

私が大学受験のときに親和のソフト部の先生から“一緒にソフトをやらないか”と誘われていました。
元々はソフト部に入るつもりだったので、
高校卒業前からバット、グローブ、ボールを持ち大学まで練習しに行っていました。

大学入学後に校門前でチラシをもらい、ボランティアのことがたくさん書いてありました。
子どもと何かやってみたいな、と思いBHの新歓に行きました。

先輩たちの楽しそうなキャンプ、先輩たちの熱い想い、
それを聞いて私もやりたい、と強く思いました。

ソフト部の先生には丁重にお断りをしてBHの活動に参加することを決意しました。

ソフト部に入っていたらBHには一度も出会ってなかっただろうし
本当に出会いってすごいです。

BHで活動を行ってきたこと、後悔なんてしていません。
BHで大学生活の半分以上を送ったことを誇りに思います。

BHではキャンプをはじめ、デイイベントや不登校事業などたくさんのことに参加させてもらいました。

本部もやってきました。辛いときや、悔しいときもたくさんあったけれど、頑張れたのは支えてくれた人たちがたくさんいてくれたからだと思います。
相談できる相手がいるって本当にいいな、
苦しいときに「なにかあった?」って聞いてくれる人がいるって本当にいいな。

そんなことに気付いてくれるのはBHで出会ったみなさんしかいませんでした。

サタプロ本部をするとなったときは
自分にそんな大きな仕事ができるのか、1年間耐えられるのか、
サタプロが楽しいことはわかっているのに長い時間本当に迷いました。
でも、2回生の中でたったの4人だけしか出来ない本部。
こんな貴重なイベントに誘われて、子どもたちもまっているのに
断ることなんてなにもないと最終的に思いました。

サタプロ1年やってきた中でも
迷うことや、辛くなったときなどたくさんのことで悩むこともありました。
でも、支えてくれた3人には本当に感謝しています。
3人と仲良くなれて本当によかったです。

まだまだたくさんのことを行ってきて
たくさんの出会いをしたことで私の携帯のアドレス帳はいっぱいの人になりました。

もう連絡は取らないだろうと思う人も、思い出があるので
消せないでいます。
これからもアドレス帳は消せないな、、、と思います。

BHは学生では出来ないような貴重な体験もしたし、本当にたくさんの経験が出来ました。
楽しかった大学生活と大切な仲間に出会わせてくれてありがとう。

最後に、私と仲良くしてくれたみんな。
本当に4年間ありがとうございました。
これからも仲良くしてやってください!!!



同窓文集案

T基礎データー
1.樋口美沙子
2.三田谷学園(知的障害児施設)

U 思い出
1.2006年(平成18年)晴れて甲南女子大生に
◎バリバリ最強ナンバーワン保育士になる!
◎小学生のころ、「保母さんになりたい」という想いが芽生える。
◎そっから1ミリもぶれることなく南女へ。
2.2007年 保育実習T
◎素晴らしい園。素晴らしい先生。愛くるしい子どもたち。とっても学びの多い2週間で、ここで保育士の核となるものを見つけたのでした。
3.2008年 幼稚園教育実習、アルバイト、ボランテイア、海外研修等
    ◎幼稚園実習は、苦痛・反面教師の4週間でした〜先生の顔色を伺う
園児、ぴーぴー増え鳴らして綺麗に整列させる先生。反面教師にな
って、これはこれで学びの場となりました。
4. 2009年 就職活動、卒業研究、保育実習U,V
◎わたしの就職活動は異例かもしれません。
 待ちに待った念願の障害児施設。運よく採用を頂いたけれど...訳あって辞退。天国から地獄へ真っ逆さまですよ〜この期間はほんとに苦しく、毎日のように大泣きしてた。
◎立ち直らなければと、数少ない施設を探していたところ、奇跡的に実習園から電話がありました。実習でお世話になった主任指導員さんが、求人でたので応募してみては?ということです!この施設は求人なんて滅多に出ないので、ほんまにそれだけでも奇跡!!喜んで試験を受けました。結果は...
◎卒業研究は「障害のある子どもが見る世界」ですね。思い通りに研究は進まなかったけれど、たくさんの子どもや本を読むきっかけにはなりました。
◎保育実習Vが、わたしの将来を変えました。冒頭にもあったように、わたしは保育園で働きたくて勉強してきたけど、この実習先での学びや発見、毎日の障害のある子どもたちとの関わりがほんまにおもしろくて、感謝の日々でした。絶対ここで働きたい!って常に言ってた。

V 今、思っている一番大切なこと
◎相手の気持ちを感じ取ること。
◎障害のある子どもたちと関わって、コミュニケーションのあり方、
自己覚知、素直さ、思いやりが大切だと感じた。それは、障害のある人との関わりだけじゃなくて、すべての人との関わりの中で言えるな〜って日々実感。

W 将来のこと―自由に現時点で思っていることを
・ どんなパートナーを見つけるのかな?
◎子どもに毎日ちゅーする人。
・ どのような家庭を築くのかな?
◎団欒の絶えない毎日。ほんまに、平凡な幸せがいいです。
・ 子育てと自己実現は?
◎子育てが自己実現につながりそう。

X もっとお互いをよく知るために
・ 今まで言わなかった秘密の趣味や特技
趣味:付箋、シール、アンティークな小物を集めること
特技:大食いです
・ はまっていること
電話、カフェ巡り
・ 得意な料理や好きな食べ物
実は料理めっちゃ得意なんですよー!ロイホのキッチンで6年もバイトしてたんだよー◎きのこと貝以外はなんでも好きー!米大好き!



樋上 雄哉   


【総責】
「実行総責任の略。イベントにおいて全ての責任を負う。基本的にイベント中は救護と共に本部と呼ばれる位置におり、参加者の様子を観察することでイベントの大半を過ごす。本部には様々な情報が副責(実行副責任)や会計(会計責任)からもたらされ、それらの情報に参加者の様子を加味した上で現在、未来における判断を下さねばならない。またそれはイベントの事前、事後においても同様であり、イベント全体の把握が鍵となる。特に緊急事態が発生した場合において、総責の最適かつ迅速な判断が求められるため、総責は常に余力を残しておき、状況の把握、指示にあたることが理想とされる。またタスクとしての余力と同時に、精神的にも余裕を持つことが必要である。問題が発生することは日常茶飯事であるため、それらの事実を受け止めることが肝要であり、即座に対処について思考を巡らせなければならない。また、「想い」というイベントの根幹を成す物あるいは理想像を明確に持ち、それらを何らかの方法で関係者に伝えることでイベント全体の士気を向上させるという役割を担う。イベントに対する愚痴や不満、批評に真摯に耳を傾けイベント向上に繋げるという姿勢も重要である。副責以下、他本部との関係性については秘め事なく全て打ち明けられる関係が最も望ましく、定期的にそのような場を設けるとより効果的である。時として孤独な役職であるが、拡声器だけはいつの日も相棒である。ちなみに総責と聞いて「総責ボックス」と呼ばれる重要書類や備品、消毒道具が入った非常に重い箱を運搬している姿を思い浮かべる方が多くいる。しかしこれはあくまで慣例的なものであり、いかなる文献にも総責に「総責ボックス」の運搬を義務付ける記載は見られない。」

なんか辞書っぽく書きましたが、僕なりの「総責」の解釈を書いただけです。偉そうにいろいろ書いてますが、何となく書きたかったから書きました。理由は特にありません。
実は僕全然仕事できないんです。まぁ前で喋るのは進んでやってたけど、いかんせん計画性がない。だから管理とか一番向いてない。それで派遣さんには怒られるわ、他の本部には呆れられるわ。でもなんだかんだ最後までしっかり指摘していただいて本当にありがたいと思いました。
とまぁこんな僕でしたが、サタプロをやってる間これだけは絶対に守ろうと思ってたことがありました。それは「事務所の全員と喋る」こと。これは単純に僕が人と喋るのが好きだったというのもありますが、何よりサタプロは多くのボランティアの協力なくしては成立しません。とりあえずみんなと仲良くなって、サタプロのことを知ってもらいたいと思って毎日みんなに話しかけていました。でも実はなんだかんだで話しかけた僕の方が元気もらったり励まされたりしてた気がします。
結果はどうあれ、こういった考え方とか目標が僕のある種支えというか軸になってた気がします。みんなもBHやってる中で大変なこと、辛いこと、逃げ出したいことたくさんあると思うけど、自分の軸みたいな考え方を1つ持っているととても重宝します。一種の拠り所みたいになって、迷ったときに立ち返ることが出来るので、ぜひ1つは軸になる考え方を持って欲しいなぁと思います。


こうやって卒業文集を書きながら4年間を振り返ると、ほんといろんなことあったなぁって思いますね。でも副理事長やら経営戦略会議やらやりましたが、この4年間を一言で表すとすれば結局詰まるところ「人との対話」に尽きるような気がします。自分の気持ちを臆することなく伝え、相手の言葉にしっかりと耳を傾ける。それは相手が子どもであろうと大人であろうと変わりません。相手の表情や言動から発信される喜怒哀楽を共有することでいろんな人と繋がってきました。それがこの4年間の土台であり、僕の全てでした。
きっかけはほんまに些細なことですが、そこから始まった僕の4年間は生まれて初めて他人に誇れる時間を過ごせたと思います。でもこの4年間は僕だけで作り上げてきたものではありません。叱ってくれた先輩、時に支え合い時にぶつかった仲間、最後まで付いてきてくれた後輩、後ろから支えてくれた職員さん、毎回いろんな表情を見せていた子どもたち。あと川中さんとか長尾先生とかみ・らいずの人とかJAEの人とか関学のHSCの人とか学生課の椿本さんとかサタプロに参加してくれた学校の友達とかもうほんまにたくさんの人たちに感謝してます。
だからBHでの4年間について人に話すとき、誇るときは絶対にみんなの顔を思い出しながら喋ります。関わった人たちのことは絶対に忘れません。形には見えないけど、それが僕なりの感謝の気持ちです。
もしこれを見たみんながBHでの活動を誇れるようになったとき、きっと同じことを思うんじゃないかなぁ。そんな日が来たらまた教えてください。

ではちょっと先に社会とかいうやつの中に行ってきます。
少しの間さようなら。



BHでの3年間

前川 佳澄(かすみん)   


BHとの出会い。それは大学の入学式だった。
大量のサークルのビラの中でやたら分厚いビラがあった。
気になって見てみると、学生が1000万近くを動かしてるみたいなことが書いてた。
「なんかすごい!」っていうのが第一印象。
すごい惹かれた。やってみたいと思った。
でも現実的に、すぐにはできなかった。
気づいたら周りに2人の友達が入っていた。
正直うらやましかった。自分もキャンプに行きたかった。
だからいろんな話を聞いた。2人ともとても楽しそうだった。

ようやく1年後、初イベントに参加できた。
初イベントはスケート。
今考えたらめっちゃ怖いことしたなって思う。
普段より怪我する危険性の高いイベントに、リーダー初めてのやつが行く。
おそらく本部も心配やったと思う。
一日中、一緒のリーダーやった先輩には、ほんとにお世話になりっぱなしやった。

正直、自分の滑りたいようには滑れなかった。
最初、もっと滑りたいのに、なんで子どもたちの面倒見なあかんねやろとも思った。
そして、自分がどんだけバランス崩そうと崩されようとこけられないプレッシャーがあった。
けど、最初全然滑れなくて休憩ばかりしていた子が、壁伝いに歩けるようになり、短い距離を手ぶらで滑れるようになり、小リンクから大リンクに移動できるまでに上達するのを間近で見ていて、「子どもはすごい」と思った。
本当に楽しかった。
子どもが滑れるようになって楽しそうにしているのが嬉しかった。
それがBHに入ろうと思ったきっかけだった。

2回生の夏、初キャンプに行った。
本部が全員自分と同い年の大規模キャンプで企画長をした。
初キャンプなのに企画長を任され、なにがなんだかわからなかった。
企画班のメンバーとはあまりMTできなかったから、しょっちゅう本部とMTしていた。
本部のみんなは自分たちの仕事もたくさんあったと思うのに、耳を傾けてくれた。
一緒に考えてくれた。アドバイスしてくれた。
ほんとに同い年には思えなかった。
自分もこんな風になりたいと思った。
とりあえず、目の前のことを必死にやろうと思った。

キャンプ当日。企画長とは何をするかとかはっきり言ってわかってなかった。
けど、子どもたちがみんな楽しそうにしていることはわかった。
ただ楽しいだけじゃなく、頭を使ったり、譲り合ったりしていた。
それを見て、報われた気がした。
初キャンプはめっちゃしんどかったけど、めっちゃ楽しかった。
2回生の冬、初キャンプ本部をした。
右も左もわからないので教えてもらいながらやった。
けど、このときは自分の甘さが失敗を招いた。
悔しいのに心にぽっかり穴があいたように、涙も出なかった。
原因が自分でわかるだけに辛かった。

3回生は学校が忙しくて数回のサタプロと日体しか行ってない。

4回生。最後の一年。
夏のキャンプ本部に声がかかった。
しかもめっちゃ行ってみたかった家島。
すぐにOKの返事をした。

一年半ぶりのキャンプで、なにしたらいいか覚えてなかった。
全然スタッフが集まらなかった。ほんとにキャンプできるんかと何度も思った。
知らない人にも連絡した。友達にも頼み込んだ。
本部からはずされても落ち込んでる暇はなかった。

そして当日。8割方が初キャンプリーダーで1班に子ども7人とかいう異常事態だったけど、何とか乗り切った。
ほんとにスタッフ全員には迷惑かけたし苦労かけたと思う。
ハプニングはたくさんあった。不幸にも一人の子どもが体調を崩して帰ってしまったり、スタッフが怪我をして、病院のある島まで行ったりした。
けど、5日間、子どももリーダーもとても楽しそうだった。
ほんとに家島まで来てよかったと思った。

この時ほど、人に感謝したことはない。
参加してくれたスタッフ。
参加はできなくてもメールの返信くれた人。
事務所のみんな。
そして、本部。

みんながいなければ絶対にキャンプはできなかったし、成功しなかったと思う。
特にやいこには最初から最後まで迷惑かけっぱなしで、どれだけ救われたことか。
そして、突然総責にさせてしまったさっこにも、ほんまに迷惑かけました。
改めてこの場でお礼を言いたいと思います。ありがとう。

2年たった今も、2回生に行った大規模キャンプの本部みたいには全然なれていない。
結局最後まで、自分のことで精一杯で周りのことを気遣う余裕がなかった。
あの時こんな風になりたいと思った気持ちはまだ健在だから。
これからも新しいステージで歩いていきたいと思う。

最後に、3年間BHで活動させていただけたことに感謝します。
ありがとうございました。



感謝まみれの4年間

松本 学   


4年間の出来事をエッセイ風に書いてみました。
1年生
前半戦
ただただイベントに参加したくて、いろんなイベントに行った。じゃあいろんな先輩が相手してくれた。サタプロにも毎月行ったし、土曜体験にもスケートにもほとんどのイベントに行った。いろんなイベントをしてくれた先輩方に感謝。
後半戦
日曜体験の総責誘われた。即決した。やってるときも「総責やってる自分すごい」って思ってた。子どもとかスタッフの事よりも、イベントやって学びたい、もっといろいろ吸収したい、もっとすごいことやりたい。そんな想いでいっぱいだった。ももとこわちゃんとあさみとあゆみさんに感謝
2年生
前半戦
大規模の総責をしたときも、「もっとでっかいことしたい=夏の大規模」的単純発想から総責した。でも初めてできた後輩とイベントやって、お世話になった人がイベントに来てくれて、被災した子ども達がイベントに来てくれて、おなじみの子ども達がイベントに来てくれて、いろいろ考え方が変わった。誰かに支えられてる。自分ができないことをしてくれる副責がいて、気が利く会計がいて、来てくれる子どもがいて、怒ってくれる先輩がいて、成長する後輩がいた。そんな人達に支えられてる自分がいて、1人じゃなにもできないって深く感じた。そして満足できなかった。かなとももとあいことあゆみさんに感謝
後半戦
派遣補資格取得。ついに派遣人生が始まった。日曜体験07、スケート、スキー、トレジャーキャンプと派遣補を怒涛の勢いでした。先輩に怒られた理由、後輩に伝えなきゃいけいこと、なんでイベントに向き合わないといけないのかいろいろ感じた。特に感じたのは、総責してた時に派遣に怒られた理由とかが理解できるようになった。感謝してもしきれないくらい誰かに感謝して、これを伝えなきゃと思った。こんな派遣補を育ててくれた、あゆみさん、のじまさん、あきまささんに感謝。それから半年後から卒業まで松本派遣の右腕となるあやみんに出会えたことに感謝。
3年生
前半戦
3年生の始まりは、1、2年時よりも平穏な幕開けだった。でもこの年から副理事長になっていた。この違いは自分にとって大きなものだ。責任を背負うとは、常務会で何かを決めるとはとても大変なことだった。それから企画管理者になった。かなとそーめんの派遣になった。2人ともかなり違う個性の持ち主で派遣のスタイルに困った。違う接し方で、違う育て方をしないといけないってことに気づいた。彼らが打ち上げの壇上で自分の気づいたことを話してる姿を見たとき、うれしくて、うれしくてしかたなかったのを覚えてる。教えることで気づけることがたくさんあった。そんなチャンスをくれた日曜体験08本部とミステリー本部に感謝。
後半戦
流しそーめんの副責とサイエンスキャンプの会計をした。就職活動も始まった。そーめんでは事業部として責任を持ってイベントをこなす後輩の姿に感動した。サイエンスでは、後輩になにか伝えようとキャンプをした先輩の姿をすごいと思った。副理事長にも慣れてきた。ほんとに自分が伝えなきゃいけないこと、できることはなんだろうって考えてた。BHからも少し手を引こうと思ってた。でも無理だった。本気で何かをやり遂げようとしてる後輩たちの姿を見たから。考える機械をくれたそーめん本部、サイエンス本部に感謝。
4年生
前半戦
日曜体験09が始まった。いわたの派遣だ。手のかかる奴でした。今年もまた副理事長。就職活動も終わった。世の中なんとかなるものだと実感。最後の年に何か後輩に伝えたいなって思った。なにかでっかいこと最後にしたいなって。ということで夏祭りキャンプの総責をしました。1回生を中心としたキャンプにしたいって思った。伝えたいこと、感じて欲しいこといっぱいあった。4年生の自分達にしかできないこともいっぱいあると思った。参加してくれた1回生達が今、BHで活躍してる姿を見てうれしい。だんだん成長していく姿を見て楽しくてしかたない。それだけでキャンプしてよかったって思えた。本部のみんなも同じ気持ちだといいな。まお、たいちゃん、まっちゃ、かな、あきまささんに感謝。

今・・・
卒業します。もう4年も経ちました。早ですね。この4年間でたくさんの感謝に出会いました。共に歩む本部に出会って、尊敬できる派遣に出会って、信頼できる派遣補にも出会って、大好きな後輩もたくさんできました。子ども達の心の片隅にでも残ればと思って、総責をやりました。後輩達がなにかに気づくお手伝いをできればと思って派遣をしました。結果がどうかなんてわからない。ほんとに意味があったかなんてわからない。でももし。もしキャンプに来てくれた子ども達がどっかでキャンプリーダーをしてて、もし後輩達がふと、「あいつもしかしてこんなことを伝えたかったのかな」って気づいてくれたらそんな素敵なことはないだろう。だから今ままで走り続けてこれたのだ。この素敵な感じを夢見て。
どっかのだれかさんへ
最後までやり抜いてください。本気でやってください。責任を全うしてください。なにより後悔しないでください。あなただけの素敵な物語を綴ってください。もししんどいなら仲間にわけてあげてください。みんなのことが大好きです。今までほんとにありがとう。




眞鍋 亜弓   



 私のBHでの活動は、がっつり関わったと思えばパッタリいなくなりの繰り返しでした。
他の同期のみんなに比べイベントに参加も、本部経験も派遣も全然ないけれど、その数少ない経験の中一つ一つで本当に最高の出会いをしてきたと思います。

・サタプロコア2回(1回生11月、2回生6月)
 ・キャンプ本部2回(1回生防災実行総責任、3回生まちづくり実行副責任)
 ・派遣補2回(3回生メモリアルウォーク、写真会)
 ・サタプロ参加25回くらい
 ・プレサタ参加2回
 ・日曜体験参加3回
 ・スケート参加5回
 ・自由研究参加2回
・キャンプ(半日参加含む)7回

もう少し関わっている気もしますが・・・
全てにおいて本当に濃い関わりをさせていただきました。

仲間との意見のすれ違いで泣いて先輩に電話を架けたり、先輩に対して本気で説教じみたことをしてしまったり、事務所に行くのが本当に嫌になったり、最終MTまで関わり方が未だに分からないと悩んでいたり、自分が情けなさ過ぎて泣いたり、何も出来なくて話を聞くのに徹しようとしたり・・・

こんな感じで辛いこと・悲しいことはたくさんありました。
でもその倍以上に素敵な出会いがあり、ただの先輩同期後輩ではない仲間がたくさん出来ました。

少しBHと距離を置こうと思っても、また結局戻ってくるのはイベントがどうこうではなく、子どもに会いたい・会いたい仲間がいる・力になりたい仲間がいるからだと思います。

たくさん笑って・たくさん泣いて・たくさん怒って・たくさんの迷惑をかけてしまったけど、たくさん楽しませてもらって・・・

こんな私に付き合ってくれたBrain Humanityの皆様へ

“本当にどうもありがとうございました”

ってなんか硬くてまなべらしくないので、最後はまなべらしく。
1回生の時に先輩に宣言した<できる女>にはほど遠かったけど、この4年間本当に本当に楽しかった!!!!いっぱい喋ってくれて、遊んでくれて、頼ってくれて、ふざけてくれて・・・ここでは書ききれないけど、ほんとーにありがとう!!
みんなめーっちゃ大好き☆
私が社会人になってもみんな遊んでね♪ではまた☆



『 希望 』

山口 美香   


BHに集まる人たちは何かしらの「希望」を抱いていると思う。

「希望」の抱き方や「希望」に対する価値観、「希望」との関係性は十人十色で、

私は出会った人と同じ数だけの「希望」を知った。


子ども達が抱く「希望」は、純粋で儚くて、ふれる時は本当にドキドキした。

保護者が抱く「希望」は、シビアで子どもへの愛に溢れていて、背筋が伸びた。

学生が抱く「希望」は、情熱も冷静も含んでいて、刺激を受けた。


BHの活動は常に「希望」と隣り合わせで、私がBHでしてきたことは、

「希望」を見出し、「希望」を信じ、また新たな「希望」に向かうことに言い換えられる。


「希望」にふれた時の感動と、「希望」を共に信じることの喜びを知った後は、

どんなに辛い作業でも、立ち向かうことができた。

自分の時間がなくなっていくことも苦ではなかった。

「希望」にふれたい、「希望」が人に与える影響を見届けたい、その一心だった。

BHに集まる「希望」が私を支えてくれた。



そして、もうひとつ私を支えてくれたもの。それはやっぱり共に歩む人たちの存在。

ワーキングチーム
HEPPER
ボランティア
事業部
理事役員
OBOG
職員

BHと共に在る全ての人のおかげで、

私は不登校関連事業部のぐっちょんで在ることができた。


私を「ぐっちょん」と呼んでくれたみんなに、

BHに関わったみんなに、心からの感謝を。


これからも、「希望」が集まり、「希望」が生まれるBHでありますように。

私と出会ったみんなの「希望」が続きますように。

自分の「希望」も、誰かの「希望」も、信じていける自分でありますように。




山本 愛子   


さて、いよいよ卒業文集を書くときがきたなぁ。

がっつり1回生の新歓から参加して、ちょうど4年間。今まで参加したイベントはどんだけやったんかなって過去のしおりを引っ張りだしてきた。
今まで参加したキャンプ数13回。サタプロ45回(びっくり)。フレキャンやら入れたら100回以上イベントに参加してた。
自分でもびっくりする。私は単純にBHのイベントがすきだったんだって改めて思った。

私がBHで活動してきて、学んだこと。
思いを持つこと。仲間の大切さ。人に影響を与えられるということ。
数え切れないほど、たくさんの大切なものをもらいました。

1回生からただがむしゃらにつっぱしって
憧れてた先輩みたいになりたい。ちょっとでも近づきたいって思って頑張った。
大好きな企画班。子どもが大好きになったキャンプ。すごいメンバーのコア。わかんないことだらけの本部。ただ先輩の背中を見て、走った1回生。

でも、これじゃぁダメだって、自分にはなにができるのかって思って。
初めて任された企画長。ほんまに色々あってめっちゃ大変で、むっちゃがんばった大規模。自分のために、自分の力で動こうとした2回生。
でも一人ではたいしたことはできなくて、支えてくれる人の大切さを知って
後輩ができて、何かをしてあげたいと思った。

人のために何ができるのかって考えた3回生。
新入生とスタッフ、今まで参加した子どものために、感謝のプレサタ。
また子どもが大好きになった、やりたいことがいっぱいできた最高の岩美。
自分の価値観が広がった、出会いの大マレ。3回生、人生最高の夏休み。

ここまできたから最後までがんばろう。残せるもの残そうとした4回生。

いーっぱいいろんなことありました。

そりゃみんなと同じ。やめたいと思ったこともいっぱいあった。
事務所にもいっぱい泊まったし、悔し涙もいっぱい流したし、なんでって思うこともほんとにいっぱいあった。

でも、それより良かったことがいっぱいあったから私はここにいる。

こんな私でも、人に影響を与えられるということ。
ほんとうにすごいことだなぁと思う。

自分が考えた企画で子どもたちが笑顔になる
自分と関わった子どもが少し成長する
自分のキャンプに参加してた新入生が成長していく姿が見れる
自分が誘った人が、本部をして、たくさんの経験をする

人にとってはちっぽけなことかも。でも、私にとってはBHからもらった大きな宝物です。
自分で「思い」をもったら、返ってくるものはたくさんあるんだなって気づきました。

BHで得られるものは全部自分次第。

これからも頑張るみんな。BHで何ができるのか、何がしたいのか考えてみてください。

レク事業部で考えられてた例え話。なんかすごく心に残ってる話。
もしBHがなくなったら?
たぶんそんなに誰も困らない。子どもたちがちょっと寂しい気持ちになって、ちょっとキンドーが困って、マレーシアも大変になるかもしれない。でも、きっと忘れられてしまう。
でも、BHはあるから、子どもが笑顔になれて、新しい発見ができて、大学生も少し成長できて、社会だって少し変わるかもしれないんです。

最後に、やっぱりここまで来れたのは、私に関わってくれた人たちのおかげです。
たくさんの人に出会って、たくさんの仲間ができで、本当に幸せです。
私は自信を持って、大好きな仲間とBHで活動できたことが誇りだって言えます。
ほんとうにありがとう。
BHからもらった宝物、これからもずっと忘れません。みんなも忘れないでください。
でも、つらくなったり、寂しくなったりしたら、飲みに行きましょう。
キャンプが終わったあとの打ち上げの気持ち、思い出して。

それまで、ずーっとBHがBHでいてくれたら、嬉しいです。
ほんとうにありがとう。それでは、いってきます。



 苦役からの解放

理事長 能 島 裕 介   



 労働は苦役だ。肉体を酷使し、精神をすり減らし、時間を費やす。ボランティアといえどもその本質は労働に他ならない。苦役のなかで心が折れ、肉体が倒れることも決して不思議ではない。苦役に直面したときの反応としてはごく正常なものだ。そんな過酷な労働に耐え、その生涯の数年間をこの組織で過ごしてきた一人一人に私がかけられる言葉は慰労と感謝しかない。
 ただ、ここに集う一人一人はそんな言葉よりももっともっと多くのものをこの組織のなかで得ているのだと強く信じている。それは子どもの変化であったり、保護者からの感謝であったりする。自分の苦役が社会のなかで必要とされ、その必要に対して有効に自分自身の力を費やすことができたとき、労働は単なる苦役ではなく、社会的な行為として昇華される。
 私は「誰かから必要とされる」ということが、労働の苦役を上回る喜びをもたらすということを知っている。おそらく、ここにいるみんなもそれをなんとなく感じているのだろうと思う。そうでなければこんな組織で数年間を過ごすことは、とても困難なことだと思う。「誰かに必要とされる」私たちはその無数の結線のなかで社会を築いてきた。私はあなたを必要とし、あなたは彼を必要とする。そんな関係性が社会を形作っている。
 そのとき私たちはいくつかの質問に答えなければならない。「なにが必要とされているのか」「私の働きはその必要に応えているのか」「私にはその必要を満たす力があるのか」そんな質問の一つ一つに答えを出しながら、みんなは前に進んできた。それらの答えはこれからみんなが歩みゆくであろう長い長い道のりの中にあっても一つの方向を示してくれるだろう。
 この組織で得た仲間は生涯のものかも知れないし、泥酔しながらカラオケで歌い狂った夜は忘れ得ぬものになるのかも知れない。徹夜でパソコンに向かった日々も、能島に罵倒され人知れず泣いたこともいずれはよい思い出になるのかもしれない。ただ、そんな仲間や思い出よりももっと大切なことをみんなはこの組織で見つけたと信じている。それは「自分が必要とされる喜び」に他ならない。
 自分が必要とされる喜びは、労働の苦役を遙かに超越する。これからみんなが進みゆく社会のなかでは労働の対価として金銭が得られる。その金銭は一人一人の生活を維持するための糧となる。しかし、生活の糧だけのために労働する訳ではない。仮に生活を送るために必要な資産があったとしても、多くの人はなおも労働を続けるだろう。多くの資産によって快楽を得ることは容易だが、自分自身が必要とされる喜びを得ることは困難だからだ。喜びはどこにも売ってはいない。一人一人の苦役によって生み出されるものだ。
 だからこそここに集う一人一人に願う。一人一人が誰かから必要とされることを。そして、それによって一人一人の労苦が喜びを生み出すことを。

「涙とともに種蒔く者は、喜びとともに刈り取る。」(旧約聖書)



無題

北村 頼生   


「ここ数年文章が変わってない」と言われ、「原稿を出すのが職員で一番遅い」と急かされ、やっと今書くに至りました。伝えたいことは毎年変わらないので内容に同じになっていましたが、心改め、今年は一旦頭を空にして書き始めることにします。如何せん文章を書くことに慣れないため、メッセージとして不十分と思ったら、昨年の文集を足してお読み下さい。時間の都合上、乱文にて失礼します。

 いつもこの季節になると、卒業していく皆さんや就活に勤しむ3年生を見て、自分自身の今を見つめ直させられます。今後を考えさせられます。学生時のように打ち込んでいるか?様々な経験を積んでいるか?先の夢を描き日々を送れているか?なかなか十分とは思えない自分がそこにはいます。30歳を過ぎ最近思うこと、それをもって送る言葉に代えさせてもらいます。
<やりたいことはやる> 今はやりたいと思った仕事と妻子と住居に恵まれているので特に欲しいものも物欲もなく、あとは日々仕事をしながら、近隣の畑で食卓にあがるだけの農作物をつくり、自分らの両親が活き活きとできる活動場所をつくり、子どもが無事巣立ち、自らが楽しめる運動系・文化系の趣味を細く長く続け、45歳ぐらいで妻と小料理屋をオープンし、老後も同じような活動ができるだけの体力が維持できておれば、おそらく幸せを感じているだろうと現時点では何となく思い日々生きています。たぶん全部叶えられる気がします。もちろん仕事面では、NPO職員としてまた別の思いを持ち活動しています。こちらは少し複雑です。皆さんも社会に出るともの凄いスピードの中で暮らすこととなり、なかなかゆっくり考える時間、余暇を楽しむ時間がなくなるかもしれませんが、ぜひ意識的に今芽生えている思いややりたいことは、奇跡的に生まれたこの上なく大切なものとして、ぜひ温め続けて欲しいと思います。
<ブレーンヒューマニティー> 「ブレーン」は「力」を、「ヒューマニティー」は「理想」を示し、団体として両者を併せ持った存在でありたいという思いが込められた名です。「理想」のない「力」は暴力であり、「力」のない「理想」は無力です。最近特にこの言葉が胸にぐさりと突き刺さります。理想を描くのも難しいながら、とにかく自身の力の無さを本当に情けなく思っています。仕事に必要な能力はもとより、一般常識や時事知識も含めた全般が欠けており、常に学ぶ姿勢を持つと新年に誓い、まずは日々新聞や経済雑誌を熟読するという初歩から始めた次第です。皆さんも私みたいに後悔せぬよう、学生時代以上に勉強して下さい。
<幸せな就職> 超氷河期と言われる今、就職するのも至難なこととなっています。ただ10年前の氷河期に私がよく先輩から言われたのは、「君は就職したいのか?それとも幸せな就職をしたいのか?」。BHの活動を通じて自身も子どもも多くを得たように、就職し「働く」ということは何かを成し得るための「手段」だと思います。その先にある目的のために働くのです。ぜひその味を知っている皆さんは、ただ「就職」するのではなく、「幸せな就職」となるよう貪欲に追い求めてほしいと思います。仕事は内容的に規模的に新鮮で楽しいものである反面、ほぼ間違いなく、しんどくて、辛いこともあり、思い通りに行かないことも多々あり、ストレスフルなものであろうと思います。ただそんな中でも、熱中でき楽しめまた乗り越える術を、皆さんはここで養って来たことかと思います。
 以上、とにかく連々書きましたが、前を向いて、心身ともに元気に歩んで行って下さい。皆さんのご活躍を心から期待しています。ご卒業おめでとうございます。そして、日々お疲れさまでした。そして、本当に有難うございました。



自分の人生のモノサシ

事務局次長 阪上 荘平   


卒業、おめでとう。
この無慈悲な団体で見事卒業を迎えることが出来た君たちに、心よりそう声をかけたい。
就職する人も、しない人も、これでこの団体とのお付き合いは一区切りをつけることになる。その門出を祝って、私なりの祝辞を述べたい。
BH、というのも社会の一つではあるが、君たちはこれからはもっと広い世界に飛びだっていくことになる。
BHというのは非常に濃い団体である。がむしゃらに目の前の活動をしていればいるほど、それ以外のもの、つまり「社会」が見えにくくなっているときがままある。だが、これから君たちが旅立っていく世界は、ここよりもっと広い世界だ。おそらく時間が経てば経つほど色々なものが見えてくるだろう。考え方の違い、社風の違い、同僚や上司の違い、仕事に対する思いの違い…様々だ。
色々なものが見えてくると、今度はブレが生じる。何を大事にすればよいのだろうか、と。
スポーツの世界と同じだ。初心者は上手くなるために教えられたことを忠実に守り、練習に励むが、腕が上達し、試合を重ねる程、相手が見えてくるようになり、相手の動きに合わせようとする余り、フォームがブレたり、崩れたりする。
そんな時どうするか。
おすすめするのは、今一度自分の人生のモノサシを取り出すことだ。
ある本の受け売りだが、「自身の人生において何を大切にしながら、何をめざすのか」、言い換えれば「自分の人生のモノサシ」は、社会に出るまでに8割方決まってしまうらしい。そう、今の君たちは既にそのモノサシをほとんど持っていることになる。
そして、人生で何を目指すか(目的)を見失うことはあっても、人生で何を大切にするか(価値観)を全て喪失することはない。
人生において何を一番大切にしたいですか?
そう聞かれて、すぐには答えられないかもしれない。でも、それはただ単に答えは君たちの中にあるのに、整理できていないだけだ。
思い返せば、BHに入った頃、君たちもこの組織の考え方・価値観に驚いたことだろう。自分の価値観が揺さぶられたに違いない。でも、今無事卒業する君たちは、そのBHの価値観と折り合いをつけることが出来ているし、ここで経験したことが自分の価値観の一部にすることが出来ている。
もう一度言おう。モノサシは必ず自分の中にある。ブレた時、その言葉を思い出して欲しい。
これからの君たちの人生に、幸あらんことを。



若松 周平   


「自信を持って、いろんな人の話を聴く」
ご卒業おめでとうございます。

私は今年度から職員として従事し、事務所にいる時間も少なかったため、たくさんお話できた方とそうでない方がいるかと思います。卒業される皆さんに対して一言でもお祝いの言葉を、と思い、書かせていただきます。

今の私が自分の学生時代を振り返って考える、また皆さんと活動していて思う学生の魅力は、学年があることだと思います。
大学は4年間という期間が決まっており、卒業というゴールがある。学年の違いで先輩後輩関係があり、引き継がれるものがある。だから続けられるものがある。
よく考えると、今皆さんが立っているこの卒業という瞬間をもって、小学校から続いてきた学年が終わりを迎えます。
これからは、学年や区切り、ゴールは皆さんが決めることになります。
迷うこともあると思います。
そのときは、人生の先輩たちから話を聴きましょう。
私はそうしています。
学年がなくなった瞬間、今までの同年代中心のつきあいから、より年齢や経験がいろいろな人との出会いが待っています。
そんな人たちから、とにかく話を聴き、自分をぶつけてみましょう。
自分の意見をぶつけるときは、99聴いて1を決めましょう。
私は、どんなに嫌だな、苦手だな、自分と合わないなと思う人でも、学べることはあると思い、人とお付き合いをしています。
それをみつけられるかは、相手の性格のせいではなく自分が相手を知ろうと思う姿勢です。
そう思うと、人とたくさん出会うこと、話を聴くことが楽しみになります。
皆さんは、社会に出て行くための自信をBrainHumanityで身につけています。
皆さんが、少しでも社会をよくし、幸せにできる役割を担うことができる人材であることを確信しています。
それを忘れずに、BrainHumanityを卒業してください。

最後に、卒業生の中でも、特に総合事業局のCFCとやなやの皆さんには、あらためて感謝の思いを伝えたいです。ありがとう。いっしょに働きたい、ずっとつながっていたいと思える、魅力的な人たちばかりです。これからも長いお付き合いをよろしくお願いしますね。



田中 章雅   


 檀上から卒業文集の依頼メールが来た。メールには今年の卒業パーティー出席予定者として26名の卒業生の名前が書かれている。それらを眺めていて気づいたことは、今年の卒業生は私が実行総責任をした2006年の第1回プレ・サタデープロジェクトの際に1回生だったということだ。

2006年4月、初めての定員無制限イベント。
その説明会のとき、一番前に座って真剣にメモをとっていた女の子が加藤依子だった。
名前に「愛」が入っていたから絶対リーダーうまいはずと考えたのが山本愛子。
名前に「海」が入っていたから男の子班でも大丈夫と思ったのが海津有希。
こいつにリーダーできるんかなあ?と心配になったのが雑賀雄太。
高学年男の子班で大変そうにしていたのが樋上雄哉。
プレサタには来てもいないのに、なぜか打ち上げに来て「ブレヒュ最高!!」って樋上と酔っぱらって叫んでいたのが松本学。懐かしい話だ。

それから、パっと見ただけで私が泣かせた人が2人。
ということは、もう泣かせたことすら忘れてしまっている人がその倍はいて、
私が知らない間に泣かせている人がさらにその倍はいるはずだ。
そんな皆さん、ゴメンなさい。

派遣をしていた私にこの子のキャンプだけは絶対させてあげたいと思わせた女の子もいる。
レク事業部の旅行のために、わざわざパワポを作らされた女の子もいる。
そんな26人が今、社会に出て行こうとしている。

あの第1回プレサタの説明会で私が言った言葉を、出席していた人は覚えているだろうか?

新入生の皆さんは今日の説明会に来て、分厚いしおりを手にして、驚いたかもしれません。BHのイベントでは、こんな細かいタイムテーブルがあり、企画書があり、難しいマニュアルがあります。イベントの中身は、ただの馬鹿みたいなヒーローのお話ですが、だからこそ私たちはそれを真剣にやりたいんです。子どもたちの命を預かるイベントだから、子どもたちにも何かを感じてもらいたいから、そうやって社会を変えていきたいと本気で考えているから、そんな馬鹿みたいな企画を私たちは真剣にやりたいと思っています。
皆さん、力を貸してください。

あれから4年。今度こそ、みんなが社会に出て、社会を変える順番がやってきました。
みんなの今後に期待し、応援しています。ご卒業、本当におめでとうございます。


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