TSU・NA・GI
「偶然の輝き」 
第1章 第2章 第3章 第4章 第5章
第6章 第7章 第8章 第9章
「偶然の輝き」は、当会の前身である関学学習指導会の理事長を務め、ブレーンヒューマニティーの設立にも深く関わり、現在当会常務理事である森山隆一さん(写真左)による回想録の連載です。
第1章

 かつて「偶然の記録」という回想録があった。それは、当会の前身である関学学習指導会の誕生から1997年10月までの歩みを能島氏が記録したものである。1997年の10月は、私にとって人生の転機と言っても過言ではない。私は、同会の理事長に就任したい!と言い、当時の同会理事長であった能島氏(現ブレーンヒューマニティー理事長)と、熱い握手を交わしたのである。
 これから始まる話は、関学学習指導会の歴史でもあるが、森山の記憶、視点に基づいて記しているため、私の回想録でもある事をご了承いただきたい。
 熱い握手を交わした後に取り組んだのは、「ちびっこスキーツアー‘98」である。生まれて初めての実行総責任で、右も左も分からないままに準備をしていた。そのなかで特に印象的だったのは、「トランシーバー事件」である。長野県のスキー場に向かうバスの中で、トランシーバーを忘れていることに気づいた私は、そのことを能島氏に相談した。彼は、一言「あれば、いいから」と言った。「無いから言ってるんだよ」と私は心の中でつぶやいた。その極めて分かりやすいアドバイスをわたしは受け入れ、すぐに自宅に電話をして、宅急便で送ってもらう手配をした。母にも私の焦りが伝わったのか、ヤマト運輸にかなり強引にお願いしたようである。このようにして、トランシーバーは無事スキー場に届いたのである。
 この事件で私は、トランシーバーの重要性を知ったのではない。決めたことは必ず実行する強い意志と、自分に対して徹底的に妥協しない姿勢を学んだ。これらの事は、これからの数年間の活動に一貫して共通していることである。

TSU・NA・GI 第2巻第6号(2000/9/20発行)より

第2章

 1月7日、朝早くにスキーツアーから帰ってきた。その日に行われる打ち上げまで時間があったので、能島氏と一緒に我が家に帰り、スキーのこと、これからのことを話し合った。そして、1月24日に日帰りイベントをする覚悟を決めたのである。能島氏が3月に卒業することもあり、私のスキルアップが緊急の課題であった。このとき、能島氏の説得的コミュニケーションは、冴えに冴え渡っていた・・・。
 そのイベントは、スケートを中心にしながら、そこにたどり着くまでの過程を探偵物語に仕立てた。子供たちは探偵になり、暗号を解読するために、お菓子のバーコードの下2桁をダイエーに見に行ったり、観覧車の数を数えたりするのである。そして、鍵を入手するのであるが、それはコインロッカーの鍵で、その中にスケートのチケットが入っているのである。凝った企画の準備は、地獄であった。しかも、30人を想定したいたところ、妙に反響があり、子供が80人も集まったのである。私は、YMCAのスタッフや、ボーイスカウトをしている友達に、手当たり次第に電話した。宗教家の布教のように。このときの私は、やる気に満ちあふれており、かつ能島氏と仕事ができる最後のチャンスとばかりに張り切った。
 スキーツアーと日帰りイベント、立て続けにがんばって、はまったことがある。それは、それまでがつらいほど、喜びが大きいということである。能島氏はこの言葉でスタッフを魅了?していく。「喜びはそのための努力に比例する」

TSU・NA・GI 第2巻第7号(2000/10/20発行)より

第3章

 1998年の2月、「なんか買ってもええけど、換金できへんで」という電話が、当時会計を担当していた勝部先輩からかかってきた。話を聞くと、会全体の資金が1万円を切ったのである。当時の収入は学生から年2000円の会費のみであったので、これも必然ではあったのだが。
 1998年の1月から電話の取り次ぎ業務を株式会社キンドーに委託し始めた。事務所を借りることを考えれば、月額3万円は安いものだった。しかし、総資産が1万円を切るような団体にとっては、とても払える額ではなかった。家庭教師派遣業の不調が計算を狂わせた。
 ここからは、大議論が始まった。とりあえずキンドーを解約して活動を学生ができる範囲にすべきだ!という意見。解約したら、家庭教師の連絡先は誰の家にすんねん!という現実問題。家庭教師派遣自体が学生にはできないのではないか!という根本的な指摘。けど、家庭教師派遣がなかったらどうやってレクリエーション活動をやっていくねん!という切実な問題。会員の年会費を1万円にしよう!という意見。「お金」というものは、あってもなくても問題を起こすものだ。
 結局そこで出した結論は、「基金」を作ろう!ということだった。学生、被災児童ではない、第3者から私たちの活動を知ってもらって資金的な援助をもらうという仕組みである。とはいっても、「基金って?」というスタートであった。夕日が沈みかけていた西宮北口のマクドナルドで「基金」というキーワードが出ると、それから夙川のロイヤルホストに能島氏と行き、朝3時まで趣意書を書いていたことを思い出す。それから仁川の自宅に戻り、誰に呼び掛け人になってもらうのか、役員はどうするのか、規約は、寄付の方法は、広報は、記者会見は、そしてそれらを実行に移すためにしなければならないことは、などなどすべきことが山のようにでてきた。
 それからというもの、関学関係者、キリスト教関係者、NPO関係者、マスコミ関係者、心理学関係者と次々に会って話をした。何度も話をしているうちに、話にもこなれてきて、その場で自分の財布からお金を出して寄付してくれる人もいた。私の2回生の春休みは基金で埋め尽くされた。しかし、大学時代を振り返って、最も充実していた時期でもあった。

TSU・NA・GI 第2巻第8号(2000/11/20発行)より

第4章

 1998年の4月、大学時代2回目の新学期である。基金の活動で埋め尽くした春休みが終わり、また日常が始まった。
毎月のデイイベントの中でも、4月の「ちびっこ地球探検」は思い出深い。その日は、本来であればバーベキューをする予定であった。「バーベキュー」ということで、スタッフも子供も集まっていたし、その準備を進めてきた。しかし、その日はあいにくの雨になるという予報。実際、翌日には雨が降りバーベキューを実施するのは不可能であった。
 雨になるかもしれないという予報を聞き、私はスタッフの北川と上田と話し合った。子ども達は何を求めて当会のイベントに来るのだろうか?バーベキューで肉を食いたい、ということはもちろんだが、スタッフの学生と会いたい!という思いもあるのではないか。スタッフにしても、企画がつぶれるのが一番悲しいのではないか。
 バーベキューは雨で無理でも、何かの企画を立てれば会うことはできる!その瞬間から雨用のプログラムの立案が始まった。翌日の打ち合わせをしようと思っていた矢先のことである。すでに時間は夕方の6時。雨の場合、どこに行くのが楽しくて、かつ今からの準備で間に合うかを検討した。一分一秒の勝負。7時頃に神戸の青少年科学館に行こう、ということが決まった。
 その当時は、あまり携帯電話も普及しておらず、公衆電話を利用して、保護者に電話をかけまくった「晴れならバーベキュー、雨なら青少年科学館です」。青少年科学館に変更しても、ほとんどの子ども達が来てくれたことは、僕たちを勇気づけた。たとえ突如決まったイベントであっても、イベントの質を下げることはできない。あたかも準備してあったように振る舞わなければならない、という気持ちが僕らを高揚させた。やることを3人でリストアップし、それを分担し、完成すると相互にチェックしあう。あのときは、3人なのに10人ぐらいいるような気持ちになった。
それから12時間後、「楽しかったよー」という笑顔とともに、子ども達は帰っていった。僕たちはやり遂げたという充実感、そして何よりも諦めなかった自分達を、少し誇りに感じた。

TSU・NA・GI 第2巻第9号(2001/1/1発行)より

第5章

 1998年の夏は、関学学習指導会にとって、最も活発であった時期の一つである。湖でキャンプを!から生まれた、「琵琶湖サマーキャンプ’98」。少人数でキャンプをしたい!から生まれた「千刈村夏の大祭り」。アカデミックな要素を!から生まれた「夏休み生き物観察隊」。同会の伝統的なキャンプのスタイルであった「ちびっこサマーキャンプ’98」。これだけ多様なイベントを実施することができたのは、そのころから言葉にはしていなかったが、「和して同ぜず」という雰囲気があったからである。和して同ぜずとは、それは自分のやりたいことではないから一緒にはしないけど、そのアイデアは良いと思うよ、という感覚である。とかく、NPOやボランティア活動をしていると「正しさ」を主張したくなる場合が多いが、このような活動に唯一正しいということはあり得ない。
 「和して同ぜず」は、大阪ボランティア協会の早瀬さんが推奨している概念であるが、当時そんなことを考えて活動をしていたかというと、まったくそんなことはない。子ども達を楽しませたい!子ども達がいろんな経験をして欲しい!という気持ちを頂上に、その登山道はいっぱいあってもよいと直感的に思っていたのである。
 昔から伝わる諺と一緒で、「和して同ぜず」は頭では「それいいね!」と思えるが、体で分かるまでは、遠い道のりであった。今でも、それを実行できているかと言えば、?ではあるが。僕はその夏は、ちびっこサマーキャンプ’98(子供56名)の総責任者をしていた。それに向けて頑張れば頑張るほど、こだわりが出てくる。逆に言えば、こだわりがなければ、キャンプの企画なんてできない。そのこだわりが、ともすれば他のキャンプへの優越感になったりしたこともあった。こうした方が面白いのに、なんて心のどこかで思っていたりするのである。総論では「和して同ぜず」に賛成しながらも、準備をしていく現場では、賛成していなかったのである。
 このことが、自分の度量の少なさだと気づいたのは、高見が総責任をした「千刈村夏の大祭り」(子供10名)に参加したときである。それまで、キャンプは大人数でやった方が絶対に面白いという確信を持っていたので、少人数だからできるイベントの面白さに驚いた。このとき、初めて「和して同ぜず」が体で分かったのである。「楽しい」「面白い」「正しい」は、いっぱいあることを知った。

TSU・NA・GI 第2巻第10号(2001/2/25発行)より

第6章

 秋は,さまざまなデイイベントが考えられる季節である。夏前と違って,いつでもバーベキューではない。何をしようかと考えていたときに,ニュースをにぎわせていたのは,仮設住宅の問題であった。高齢者の一人暮しの孤独死,遠く離れた恒久住宅しか当たらず引越しできない住民。震災から3年と少しの月日が過ぎていたので,仮設住宅の住民は比較的,高齢であった。私たちにできることはないか?新しいこと好きの当会は,すぐに六甲アイランドの仮設住宅に連絡をとった。水垣慶太、大活躍であった。どうやら,彼は老人,おじさん,おばさんが得意らしい。
 私たちの想いに、六甲アイランドの自治会の方々も大変喜ばれ,その企画は「仮設住宅の方とふれあうちびっこツアー」としてすぐに実現された。内容は,得意のバーベキュー。ここらへんはひねりがないのだが,その後に千刈キャンプ場から七宝焼きの道具を借りて、住民の方々24名と子供たち23名,当会のスタッフ21名で楽しんだ。このイベントは大成功に終わった。この様子は,NHKにも取り上げられ、その日の18時のニュースをスタッフ全員で見たことを覚えている。やはり、メディアに取り上げられるというのは,社会的な評価であり,すごく嬉しい。
 そのイベントの評価会で,この様なイベントは単発で良いのか?と言う声が上がった。もう一回やろう。その想いは,2ヶ月後に実現することとなる。12月に「ちびっこ餅つき大会in六甲アイランド」が実施された。このときは,このイベントを聞きつけて,はたっこ太鼓という団体も参加してくれた。
 確かに,震災というのは社会状況としてわかりやすい事象ではある。しかし、それに対して私たちは、私たちの視点で,私たちに出来ることを行った。社会という現実はひとつであるが,その視点は多様にある。そして、その視点が私たちの行動を動機付けている。つまり、学生が今日の社会をどう見るのか?ということが、私たちの行動にとって決定的に重要なのである。当時,私たちは周りに敏感であった。そして、ニーズを掘り起こしていた。仮設住民の方の子供たちと触れ合いたいというニーズ,子供たちの社会と身近に接したいというニーズ。これらは,ニーズが満たされなくても,生きていくことは出来る。つまり、潜在的で分かりにくいニーズではあるが,それを学生であるがゆえに気付き,実行することが出来たのである。
 NPO団体は、自分がしたいことについては熟知し,よく議論もするが,何が必要かということについては,民間企業よりもはるかに劣るといわれている。私たちも、ニーズがあっての活動である、ということを常に意識した活動を行っていきたい。

TSU・NA・GI 第2巻第11号(2001/3/20発行)より

第7章

 久し振りのTSU・NA・GIということで、現状報告を少し。4月2日に入社式があり、正式に銀行マンとしてのスタートを切りました。現在は、横浜はあざみ野という場所にある研修所にて、朝8時40分から深夜1時頃まで外為、預金法務、事務、グループワーク等に力を注いでいます。まさに、これから営業店(支店)に出るにあたっての底上げ期間です。グループワークのテーマは、当行が21世紀を生き残るための事業戦略です。あまりに大きなテーマに日々苦戦を強いられています。
 さて、研修とは、経験を積んだ者が、これからスタートする後輩に、必要なことを教えることです。現在、このことはブレーンヒューマニティ―ではどのように行われているのでしょうか?私が後輩に指導しようと必死になっていたのは、大学2年生の冬。瀧本君と新開君が総責任者として実施したスキーツアーでした。私が去年総責任として感じたこと、苦労したことを事細かに伝えたのを覚えています。色んな事を事細かに話しているうちに、去年のバージョンアップで今年やりたい、という気持ちがめきめきと芽生えてきました。もちろんそれを強制したりはしませんでしたし、去年と違うスキー場になったことも、感情としては残念でしたが、脳みそで肯定的に捉えました。
 どうやら、彼等は私がいう事を聞き入れると、何となくオリジナリティーがなくなるのではないかと感じていたようです.これは、随分と後になってから分かったことです。私も自分の言った事があんまり反映されないので、きっちりと後輩を育成できなかったとふがいなく思いました.
 それから1年後、3回生になった彼等の活躍を知らない人は誰もいないでしょう.瀧本、新開、城戸といえばまさにゴールデンメンバーです.先日の卒業記念パーティーの前に開かれた理事会で、長尾さんが引き継ぎについてのコメントを述べられました.引継ぎとは、先輩が後輩を教えることではなく、先輩のポジションを後輩が取ってしまい、そこで後輩なりに頑張ると言う事である、と.2年前、僕はポジションを譲らず、何でもかんでも教えようとしていた様です.4年間で1サイクルである私達にとって、スムーズな引継ぎは不可欠です.上記のような観点から言えば、「引継ぎ」という言葉はナンセンスかもしれませんね.ともかく、現4回生の三人は、現社会人1年生から仕事を見事に取りました.このようなつながりが、今後も続くことを祈ります.

TSU・NA・GI 第3巻第1号(2001/4/20発行)より

第8章

 関学学習指導会の総会は、毎年5月に開催された。一年間の企画報告、決算・予算の承認、新しい理事の選任などが主な議題である。1999年の4月は、一月中、総会の準備をしていた。事務所もない時代であるから、領収書が貼ってあるノート一つとっても、総責任者の家にあるのか、会計責任者の家にあるのか、森山の家にあるのか、皆目検討なしの世界である。その領収書台帳で、今でも覚えているのは、あるイベントの総責任者だった上田篤志君に、10ヶ月位前のイベントの○○円の支出の内容って覚えてる?と電話したことである。「覚えていません」という、当たり前の返事が返ってきた。また、助成金関係の資料がないときには、当時その資料を持っている可能性の高かった城戸現理事の家宅捜査を行った。ちなみに、城戸邸に伺ったのは、それが最初で最後であった(急におしかけて誠にすみませんでした)。
 今でこそ毎週の現金と帳簿の照合が、理事長と財務理事によって行われているが、そのころの会計はひどかった。一年分にわたるツケがどっと回ってきたのである。総会の準備は、理事長が間借り(?)している長尾邸で行っていた。長尾邸は、一般の家であるにもかかわらずLAN(パソコンとパソコンをつなぐもの)が構築されていたりと、現在の事務所にも匹敵する機能を有していたのである。
 朝4時頃まで頑張って、9時から授業を受け、一般教養の授業になるとまた長尾家に戻るという暮らしであった。こういう、しんどかった経験はよく脳裏に焼き付いている。
 このときは、たまたま長尾氏の好意によって、長尾邸を使わしていただいたが、普段のミーティングや理事会は、様々な施設、喫茶店を利用していた。キャンプはだいたい逆瀬川か西宮のコープボランティアセンター、理事会は7時からウェンディーズ、9時からモスバーガーといったぐあいである。一時愛用していた珈琲館も懐かしい。ハンバーグが安いことで有名なブリックス(山手幹線沿い)に長居しすぎて「こういったご利用は今後二度としないように」と、店員に怒られたこともある。このような不便さも、当たり前といえば当たり前なので、特に苦痛に感じることもなく日々を過ごしていた。
 しかし、理事と会員の意識の違い、一部の人間に集中する事務、会員同士お互いがどんなことを考えているか分からない、等々コミュニケーションの欠如による問題が顕在化してきた。何とかできないのか。上述の文書管理もしかりであるが、みんなが気軽に集まることのできる場所、そして会が所有する物が置ける場所、つまり事務所を持つことが一番良い解決方法だ!と、夢物語を真剣に考えた。

TSU・NA・GI 第3巻第2号(2001/6/20発行)より

第9章

 自分たちの場所。そこで、ミーティングもできるし、だべる事もできる。会の持ち物もそこで一元管理できるし、キャンプ準備の作業もできる。まさに夢物語であった。会員同士のコミュニケーション不足を筆頭に、すべての問題を解決できる、魔法の杖のように思えた。
 そこから、事務所探しが始まる。場所は、みんなが学校の帰りに道に寄れるところ。かつ、駅から遠くなく、それなりのスペースがあること。なんて贅沢なんだろう。しかし、借りたものの、みんなが来なければ何の意味もない。あつかましいお願いを胸に、不動産やさんの門を叩く。
実際に、今の事務所の家主である上谷氏を紹介してもらったのは、私が家庭教師をしていた家庭のお父さんであった。上谷氏と会うと、事業計画を出してほしいと言われ、理念、目的、具体的な戦略から収支予算書までを作り、見ていただいた。それを見た上谷氏は、「人件費が計上されていない予算書なんて、現実離れしている。」とおっしゃった。人件費がなければ、人は動かない?それまで、持ち出しすらして活動をしていた私たちには、ナンセンスな発想のように思えた。しかし、実際に事業をされている上谷氏から見れば、人件費も出せないような団体の未来は真っ暗だったのであろう。その点は、能島さんが現在住友銀行に勤務しており、それを辞めて代表に就任すること。人件費も、出せる資金状態になれば出したいことを伝えて、とりあえず納得していただくことができた。
その交渉と同時並行で、事務所の部屋の配置や、購入しなければならない備品、物品のリストアップを行った。現在、補習塾の教室は区切られていないが、そこには、侃々諤々の議論があったのである。ちなみに、事務スペースを区切る壁と、教室にあるクーラー2台でなんと!100万円もしたのである。どうやって、その資金を集めよう?これは、能島さんが友人に声をかけて集めてくださった。人徳のなせる技である。今、筆頭株主は大藤家であるので、この場を借りて感謝します。えっ?早く返せって?
かれこれするうちに、事務所を貸していただくことができ、工事の日程も決まってきた。それからは、リサイクルショップ巡りである。これは意外と楽しかった。いかに良いものを安く買うか。話が具体的になるにつれ、大きな不安とこれからの未来に、心が揺れ動いた。

TSU・NA・GI 第3巻第3号(2001/9/5発行)より

第10章

 感謝。感謝である。1994年5月1日、家庭教師業事務代行を行う4人の学生団体が、阪神・淡路大震災を経験して、レクリエーション事業に乗り出し、5周年を迎えたのである。これまで自分たちを支えてくれた、関係者の方々、子供やボランティア自身の保護者に感謝を述べるとともに、その成果を伝えようと「5周年記念式典」を開催した。
 とかく、自分たちが全身全霊を傾けて頑張っていると、周りも協力して当たり前だろうという気になることがある。学生である自分たちがこんなに頑張っているんだから、と。しかし、理解されないことによる葛藤もある。よくあるのは、自分の両親との当会の活動に対する見解の相違である。「人様の子供の面倒を見る余裕があるのなら、もっと自分のことをしっかりやりなさい。それから、夜は早く帰ってきなさい。」親からすれば、もっともな意見である。それなのに、多くのご両親がご理解を示し、滝本理事のお母様にいたっては、スキーのゼッケンをすべて縫って下さったという逸話まである。また、参加者の保護者は、私たちを信頼して子供を預けて下さる。キャンプは危険を伴うものであるから、その信頼たるや相当なものであろう。
 私たちが誠心誠意取り組むことを軸に、周りの方々の理解や協力が有機的に関係しあって、5年間も続けることができたと痛感した。しかし、私たちの活動はまだまだこれからである。その日は、定期総会を開催した後、新しい西宮の事務所でボランティア同志でパーティーを開いた。また、新しい歴史が始まろうとしている。

TSU・NA・GI 第3巻第4号(2001/12/1発行)より

第11章

 私が入社してから9ヶ月が経った。ぽつぽつと、同期が辞め始めた。あまりに自分の想像と違ったのか、やりたい何かが見つかったのか、理由はいろいろであろう。同期の辞職にあたり、なぜ働くのか?という疑問がわき上がる。お金を稼ぐため?いろんな経験のため?自分の成長のため?
 なぜ、働くのか?みなさんに当てはめると、なぜ、活動するのか?このことは、かつて関学学習指導会で頑張っていたボランティアも考えたことである。こういうことは、もっぱら辛いとき、しんどい時に考えるようである。そして、優先順位、ブレヒュー用語ではプライオリティーという問題が、出発点となることが多い。例えば、今から授業があるのだが、今日のキャンプミーティング用の企画書ができていない等。授業、ゼミ、アルバイト、友人、恋人、家族等、活動とバッティングしてしまうことは多い。
 関学学習指導会の歴史を振り返ってみるとき、現理事長の能島氏の努力、ねばりの功績は大きい。彼は、どんなこと(前述のバッティング要因)があろうとも活動を優先させ、最後までやり遂げるということを信条とし、彼より頑張っているボランティアはいない、という状況を続けた。私も、そのことにリーダーシップとしての美学を感じ、がむしゃらに努力した。
 しかし、キャンプと家庭教師派遣事業に、BHの補習塾事業等が加わり、がむしゃらだけではどうにもならなくなってきたのが、1999年の7、8月頃である。私は、後継者探しを始めたが、そう簡単には見つからなかった。そこで、ボランティア全員を集め、今後について語るミーティングを持った。当会の社会的意義や、個人の当会への関わりなどが、熱く語られた。活動を止めてしまうのはいやだけど、自分が代表になるのは無理、という意見が大勢を占めた。会議は長時間にわたり、午前10時から翌日の朝方まで話し合い(その場の発言はすべて、資料として残っている)、結局は解散という結論を出した。
 現在は、専従職員の方がおられ、事務所があり、とボランティア活動のプラットフォームとしての機能がかなり充実し、当時と状況は異なっている。しかし、現在頑張っているボランティアと、かつて頑張っていたボランティアの熱い思いや、抱えた悩みにそう違いは無さそうである。私たちOB、OGはできることなら、何でも協力したい気持ちである。なぜなら、この活動を通して、いろんな事を考え、悩み、感じ、経験して、今の自分がいることを知っているからである。
 この偶然の輝きも10回を数え、ようやく解散を決議したところまで話が進んだ。あまりにいろんな事がありすぎて、まとまらないところもあったが、そこはご容赦願いたい。次回は、最終回である。「偶然の輝き 終わりに」を、お楽しみに。

TSU・NA・GI 第3巻第5号(2002/1/1発行)より