TSU・NA・GI

●"Do Communications!" 8
〜見方が多いと・・・〜


 文藝春秋の7月号で、佐賀バスジャック、豊川の主婦殺人、新潟の少女拉致監禁、京都の小学生殺害の4つの事件について、それぞれの犯人である青少年たちの詳しい生い立ちや家族をめぐるルポルタージュが掲載されていました。森下香枝さんというジャーナリストによるものですが、彼女は、これら4つの事件に共通するのは「父性の不在」だと述べています。理解に苦しむ、あまりに身勝手な犯行をおかした彼等の人格形成の段階において、父親の影が非常に薄く、家庭は、過保護、過干渉な母親と、その期待を一身に担う息子という「母子一体」の閉鎖的な空間であったということです。
 この“過保護・過干渉な母親の対応が原因で、子どもが情緒的な問題を起こす”という構図は、ふた昔ほど前に流行った『母原病』という言葉を思い出させます。これはある小児科医が書いた本のタイトルで、当然ながら、この言葉によって子育ては母親の責任という社会的なイメージが一段と強まりました。当時は、不登校(その頃は登校拒否と呼ばれていましたが)や家庭内暴力といった言葉がマスコミなどに登場するようになってきた頃で、母親たちは子育てに対する責任感やプレッシャーによって、かえって過保護・過干渉に追い込まれる結果となったという経緯があります。もちろんこの本は、母親を攻撃するために書かれたのでは決してなく、確かに存在する母子密着の弊害に警鐘を鳴らすものであり、現に今も育児書として出版されています。けれども、母原病というタイトルが示す、あまりに一面的なイメージはやはりいただけません。「母の過保護」は「父性の不在」と表裏一体であるはずなのに、母親だけが責められるのは決してフェアではありません。「母の過保護」につながる「父性の不在」につながる「社会の構造」につながる・・・と全体の構図を視野に入れて、自分や家族や子育てのあり方を問い直す時代が来ているのではないでしょうか。見方が多いと味方が増える、です。

(関西学院大学社会学部 専任講師 川島惠美)

TSU・NA・GI第2巻第4号(2000/7/20発行)より