TSU・NA・GI

●"Do Communications!" 3 〜親と子の対立〜

 お正月になると、ときどき思い出すことがあります。私が中学3年かあるいは高校生であった頃のお正月。このときも長尾家では恒例になっている祝い膳を前にして、全員でお雑煮とおせち料理で新年のお祝いをしていました。父親はお屠蘇のあと酒を飲みながら、家族で会話を楽しんでいました。私も自分のやりたいことなどを話していたのでしょう。そのとき、突然に父親の祝い膳がお雑煮などの料理もろとも、私に向けて飛んできたのです。驚いた私は、「なんでや!」と叫んでいました。
 兄や弟は呆然とし、母親は私に、「謝りなさい」と仲裁に入りながら、散乱した食器や食べ物を片付けるという惨状になったのです。楽しかったお祝いの席は、一瞬に暗転。
 いま思い起こしても、私のどんな行動や発言が父親の逆鱗に触れたのか不明です。しかし、この事件によって、「父親も一人の弱い人間だ」と私の中で妙に納得したのです。
 正義感があり、お人好し、でも気が小さくて、自分の気持ちや考えを言葉にするのが下手。まして、妻や息子に正面きって仕事以外のことを伝えるなんて思いもしない。そんな父親であったのです。少し自分の思いと違うことがあると、すぐにかっとなって、こぶしを振り上げるか、物が飛ぶのです。いま、思春期であった自分がそのような父親を受け入れることができたエピソードとして思い出すのです。  この対決の結末は、好ましいものではありませんが、私には、これから父親と対等で話せる、恐がらなくていいんだという安心感のようなものが生まれたことは確かです。
 高校3年の春、私はキリスト教の洗礼を受けることを父親に話すのです。私は自分の人生の選択を伝え、父親の心配事にも彼の顔をしっかりと見て了解を取り付けたのです。
 いまからすると、泥臭い「親子の対決」でしたが、これが「私の成人式」を演出してくれたのだと思います。
 いまの「親子の対決」はどのようなエピソードになっているのでしょうか。

(聖マーガレット生涯教育研究所 主任研究員 長尾文雄)

TSU・NA・GI第3号(2000/2/1発行)より