〜「偶然の記録」〜
関学学習指導会顧問 能島裕介

関学学習指導会会報「Cross Road」より転載         

INDEX
 その一  その二  その三  その四  その五  号外 
 その六  その七  その八  その九  その十  その十一


その一


 この前、みんなでビデオを見た。地震直後に行われたこの会のキャンプの様子を記録したものだ。みんなはそこに映っている私の姿を見て、若いといった。どうやらこの三年で私はとても歳をとったようだ。その証拠に新理事長から会の歴史を書いて欲しいと頼まれてしまった。なんだか昔話を語る老人のような気分だ。でも、少しずつ記憶をたどりながら偶然の積み重ねによってできたこの会の歩みを振り返ってみようと思う。
*  *  *

 「みんなで家庭教師の派遣をやらへんか。」伊東真一はB号館の教室の後ろの方で眠っている私にそういった。入学間もない九四年の四月のことだった。彼がいうには一般の家庭教師派遣業者は客から多額のマージンをとっているらしい。つまり客から高い金をとって、教師である学生にはその六、七割くらいしか渡していないというのだ。当時、私はとても家庭教師に興味があった。適当に子供に勉強を教えて、楽に高い給料がもらえる。そんなおいしいバイトは他にないと思っていた。しかし現実には、そうした裏があったのだ。そこで私はすぐにその話に乗ることにした。
 そこから仲間集めが始まった。やはり派遣業をするためには事務所が必要である。そのため、学校近くに一人暮らしをしている森川隆博が仲間に入った。また事務のできる奴も必要だった。そこで中高時代から事務の才能を発揮していた浜村直之が仲間になった。そして歴史的な九四年五月一日を迎えることになる。その日、私たち四人は森川家へ集合し、この会の概要をまとめた。名称、運営方法、料金その他様々なことが決められた。そして四人の間で組合契約が締結された。そこには四人が理事となり、関学学習指導会を設立、運営すること、その資金は共同出資によること、利益が出た場合はそれを配当に付すことなどが定められていた。そして私たちの基本理念として、学生と家庭にとって相互に有利な家庭教師派遣を目指し、マージンをほとんどとらず、学生にとっては高い報酬で、家庭にとっては安い月謝で学習指導が行えるようにした。当時から会の運営に関する労働は全くの無償で、会の営利を目的とせず、講師一人一人に利益が行くように考えられていた。その証拠に決算時、会に余剰金のあった場合、基本金を除いた金額を家庭教師のみんなで分配することも定められていた。こうした 画期的で、理想を追求した家庭教師システムは華々しく始動するかのように思われた。
 しかし、現実の壁は高かった。五月の中旬、私たちは初めての広告を産経リビングに掲載した。しかし、反応は二件のみ。しかも契約を取れたのはその内の一件だけであった。あまりの反響のなさにショックだったが、自分たちの考えたシステムで金が稼げたことがとてもうれしかった。少しだけ社長になった気分だった。その後も何度か広告を打ったが、結果はどれも同じくらいだった。だんだんとみんなの意気込みが薄れていっているようだった。資金も底をつきそうになった。やはり大手にはかなわないのか。家庭にとっても学生にとっても完璧だと思われたこのシステムが受け入れられないことが、とても歯がゆかった。そして時間ばかりが流れていった。運命の九五年一月一七日まで。(敬称略)〈続く〉
その二


 華々しく発足したかに見えた関学学習指導会は四人の理事達の活躍もむなしくどんどん衰退していっていた。そして、ついに運命の一九九五年一月一七日を迎えた。
 私は地震直後から三田の千刈キャンプへ避難していた。そこでは何度か関西学院救援ボランティア委員会の主催でキャンプが行われていた。私もそれに参加して、子どもたちからいろんな話を聞いた。ある中学生は避難所となった中学でボランティアをして、死体を運んだという。ある小学生は、その友達が死んだという。地震直後に被災地から逃げ出した私にとっては、とてもリアリティーのある震災体験だった。
 やがて避難している私のもとへ大学から手紙が届いた。どうやら定期試験にかわるレポートがあるらしい。そのため地震後、何度か大学へ行く機会ができた。ある日の午後、私は大学の帰りに会の事務所となっていた森川の下宿へ寄った。話をしていると森川はこんなことをいった。「この前、避難所で夜遅くに参考書を広げて勉強している中学生の姿をテレビで見た。なにか俺達にできることはないか。」何気ない会話の一つだった。そこで、いままでこの会でやってきた家庭教師派遣のノウハウを活かして無料家庭教師派遣をやろうということになった。そして伊東と浜村に連絡を取り、承諾を得た。その日、私たちは関学学習指導会に「救援教育センター」を設置した。当時、各所に作られた救援物資センターと同様に、教育を被災地に届けようと考えていた。企画書はその日のうちに作られ、その夜マスコミ各社に配信された。森川の思いつきから八時間も経っていなかった。
 翌日、第一報が神戸新聞の震災情報欄に掲載された。その日から森川の下宿の電話は鳴り続けた。四人の理事の他にも嶺坂や国房など何人かの友達が交代で電話番をしていた。当時、救援教育センターでは無料家庭教師をしたいというボランティアとその派遣を求める家庭とのコーディネートを行っていた。会の電話はボランティアと家庭からの電話でひっきりなしだった。八二歳の老人から電話をもらったこともあった。「私は年をとっているので肉体労働はできないが、家庭教師はできる。私も被災地のために働きたい。」このほかにも、大学入学が決まった高校生や現役の予備校講師、教員OB、主婦、学生などから多くの電話をもらった。また派遣を要請する家庭にも様々な事情があった。「高校受験を控えた娘が、地震のショックで入院した。病院まで教えに来て欲しい。」私たちは即日、病院に講師を派遣した。その結果、二月二一日から四月末までの間に二〇〇名以上のボランティア登録を得、一〇〇件以上の家庭に講師を派遣することができた。ちょっとした思いつきが、とんでもないことになった。でも、反響の大きさから引くに引けない状況になっていった。
 そしてもう一つの思いつきが一つの電話から始まった。それは私たちがボランティア講師を派遣している家庭からの電話だった。「最近、被災地には遊び場がない。遊び場と遊び相手になってくれるお兄ちゃんが欲しい。」他にもこんな電話が何件か来ていた。そこで、私たちは関学の千刈キャンプでキャンプをやることにした。これも単なる思いつきだった。しかし、それからが大変だった。私たちには家庭教師派遣のノウハウはあってもキャンプ企画の経験はなかった。なにもかもが初めてで、手探りの状態だった。今思えば無茶なこともしていた。西谷バス(当時)にはバス代をただにしてくれと交渉した。三田市と三田市教育委員会には後援してくれとお願いもした。千刈の料金も値切った。会には金がなかった。行動力と人脈をフル活用して、なんとか一泊二日で一九八〇円に抑えることができた。スタッフも少しずつ集まってきた。高校時代の友達を中心に、二四人のスタッフが集まった。そこには高等部教諭宮寺良平の名前もあった。私たちに活動に賛同して、自ら来てくれたのだ。とてもあわただしい準備だった。しかし、 本当に楽しかった。一つの作品がだんだんと作られていくような、そんな気分だった。キャンプの内容は今から見ればとてもお粗末だったかもしれない。でも、キャンプが終わった時、とてもうれしかった。一つの思いつきが、また現実になったこと。そして、試行錯誤しながらも自分たちの努力でそれを作り上げたこと。それがうれしかった。喜びはそのための苦労に比例すると心の底から感じた。
 キャンプの翌日、キャンプに参加した子供の保護者から電話があった。「また、夏にキャンプして下さいね。」『ちびっこサマーキャンプ95』また一つの思いつきが、現実のものとなりつつあった。    〈つづく〉
その三


 1995年4月1日、我々は大きな転機を迎えた。それまで無料家庭教師派遣活動を中心に被災地の教育的な支援を行なってきた「救援教育センター」を改組し、「ちびっこ支援センター」を設置したのである。その背景には学校機能の回復に伴い、緊急で応急的な教育支援活動の要請が少なくなり、それに呼応する形で学習だけではなくより総合的な子供の支援の必要性が高まってきたことが挙げられる。そしてこれからはこの「ちびっこ支援センター」で従来の学習支援活動はもとより、キャンプやピクニックといったレクリエーション活動も行なっていくことになった。
 そして「ちびっこ支援センター」初のキャンプはひょんなところから始まった。4月、何とか初めてのキャンプを乗り切った我々の所に一本の電話があった。その電話の主は春キャンプ参加者の母親。「子供がとても喜んでいました。また夏にもキャンプをしてくださいね。」その電話を受け取った浜村は不覚にもハイと言ってしまった。そこでまたひとつの企画が始まった。「ちびっこサマーキャンプ95」である。我々は再び2回目のキャンプに向けて準備を始めた。またその月には子供達と一緒にピクニックも行った。そしてこのピクニックは原則として毎月第4土曜日に開かれる事となった。
 毎月のピクニックは新聞で告知していたので、徐々に多くの子供達が集まってくるようになった。バーベキューには80人以上の人々が集まった。バーベキューコンロや炭、食材などだけでも相当な荷物だったが、どうやってピクニックセンターまで運んだのか、記憶にはない。ただはっきりと覚えているのは、いつも企画の直前は本当にあわただしく、楽しかった。逆にいえば、直前までほとんど準備をしなかった。行き当たりばったりだったのかも知れないけど、企画の発案から実行までのスピードには自信があった。
 7月くらいになると夏のキャンプの準備がはじまった。基本概要も決められていった。子供の人数は春のキャンプの反省を活かして、すくなめの30人とすること。子どもたちを班にわけ、そこにリーダーをつけること。すべて雑談の中で決まっていった。企画も関学の新学生会館のラウンジでだべりながら決まった。コンセプトは「脱日常・衣食住」子供達にはキャンプの最初にTシャツを配り、それに好きな絵などを描く。それはキャンプ中、服が汚れてもよいようにとの「汚れるための服」でもあった。洋服は汚してはいけないと教えられてきた子供達にとって、それは日常からかけ離れた世界となった。また、夕食は自分達で献立を作らせ、自分達で三田のサティーまで買い物に行かせ、自分達で調理させた。買い物や料理は保護者がすべてやってくれる子供達にとっては、非日常的な体験となった。また自分達で竹を割り、流しそうめんもした。泊まる所も非日常的なものとしてテントを選んだ。すべてが初めての体験だった。もちろん我々にとっても試行錯誤しながらのキャンプは、非日常的な体験だった。この夏のキャンプは本 当に面白かった。雑談が現実化していく過程が本当にすごかった。この時点で、我々がこれから進んでいく道がある程度示されてきた。キャンプを中心としたレクリエーション活動を行い、被災した子どもたちを支援していこう。子どもたちの楽しそうな姿と、自分たちの充実感のなかで、実感としてその思いがわいてきた。
 みんな夏のキャンプが終わるとすぐに、次の春キャンプの話を始めていた。別に義務でもなければ、恒例行事でもないのに、みんなのなかで春キャンプをしたいという思いが自然に高まっていっていた。夏のキャンプ後も月1回の企画も続いていた。参加する子どもたちは増えていく一方だった。ちょうどそのころ、事務所が森川の下宿から上谷の下宿へ移った。上谷はこの夏のキャンプから参加していた。そしてとんでもない事務処理能力の故に、自分の下宿までも事務所として提供するという大変な役割を担うことになった。以来、彼はこの会の事務局長として、昼夜をわかたぬ仕事をしてきた。どうやら彼はこの会との出会いによって、大変なことになったようだ。この会と出会うことによって、少なからず運命や、価値観を変えられた人間がいる。
 春キャンプの準備の過程で、一つの重大な出会いがあった。場所は関学高等部職員室。本当に偶然の出会いだった。しかし、その出会いは新しい歴史の始まりでもあった。〈つづく〉
その四


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その五


 96年10月頃に関学の広報室から電話があった。「神戸新聞が正月の連載記事のために指導会を取材したいらしい。どうか。」突然の電話で非常に驚いた。これまでもキャンプなどの際には新聞やテレビなどから取材を受けることがあった。しかし、連載記事で特集を組まれたことはなかった。これも、この会の活動が社会的な認知を受けつつあることの証拠でもあった。理事会はこの提案を了承し、取材を受けることになった。何人かの会員が取材を受けたり、11月のピクニックには記者やカメラマンがやってきた。その記事は「希望をともに」と題して97年の正月に9回に分けて連載された。
 また同じ頃、当時関学高等部の3年だった森正義が春にスキーをしたいといいだした。私は直感的に面白いと感じ、「是非やろう」と即答した。しかしそれからが大変だった。理事会のメンバーの多くはスキーの実施に反対した。理由は簡単。事故のリスクが高いということだった。確かにスキーでは毎年何人もの人が死亡や負傷をしている。もしこの会の企画で死亡者や重傷者が発生したとしたら、おそらく会は存続できないだろう。そこまでのリスクを冒してまで、あえてスキーを実施することに疑問を感じる理事が多かった。でも、スキー実施を求める保護者のニーズは強かった。アンケートでも実施してほしい企画の一位にランキングされていた。そのため理事会では詳細な検討を重ね、考えられるリスクをすべてあげ、その対策を考えた。どんな企画にも少なからずリスクがある。多くの場合、そのリスクだけが目立ち、その企画それ自体を取りやめてしまうことがある。しかし、この会はこれまでそういった発想をしてこなかった。リスクよりもメリットが多いのであれば、チャレンジしよう。その上でリスクを徹底して軽減させよ う。それが、失うものを持たない学生団体としての強みであり、また魅力でもあった。「やり始めてから考えよう」「なんでもできる」「トライアル&エラー」そんなポジティブで、楽観的で、自信過剰な意識が、この会の源流には流れていた。しかしその上で、本当に詳細な部分にまで企画を煮詰め、あらゆる場所、状況の中で発生しうるリスクを検討し、その対策を練るという姿勢も併せ持っていた。つまり冒険的で、挑戦的で、革新的な発想は、それによって発生するであろうリスクを回避できるという自信に裏付けられているのである。私が企画の際に、事細かな検討を促す背景には、そういったポジティブな発想が生まれる土壌を作るという強い意志がある。リスクを知らずにそれを冒すのは愚かしいが、リスクを知った上でその対応を練り、あえてそれを行うのは勇気である。さて、結局、理事会は春休みに「ちびっこスキーツアー九七」を実施することを決定し、私が総責任を務めることとなった。発案者の森は副責任に就任した。
 それとは別に、当時、発起人の一人として常任理事を務めていた濱村も春に千刈でキャンプを行うことを提案した。彼はこの会の他にも、宝塚市のキャンプ場でキャンプリーダーをしており、その経験をもとに新しいスタイルでのキャンプを目指していた。彼はそのキャンプを「実験」として位置づけていた。当初、彼が提示した日程がスキーツアーと重なっていたため、理事会が日程を調整し、九七年春には「ちびっこスキーツアー九七」と「ちびっこスプリングキャンプ九七」の二つの企画を実施することになった。ただ、ここにきて私がとんでもないミスを犯していたことが判明した。なんとスキーツアーの日程が、終業式より前に食い込んでいたのだった。つまり、春休みに入る前に出発日を設定してしまったのである。これは保護者からの指摘で判明したのだが、これまで企画してきた中で、もっとも大きな失敗であった。ただそういった日程であるにもかかわらず、定員三十名のところ百名以上もの応募があった。おそらく保護者も終業式の日を忘れてしまっていたのだろう。すぐに、私は旅行代理店や現地ホテル、ゲレンデ等に日程変更の可否を確認し、何とか日をずらすことができた。保護者 にも、その旨をはがきで通知し事なきを得た。企画の要素として、場所や人、資金などと並んで時間というのがまず最初にあげられる。企画を行おうとしたときにはまず時間を確定させなければならない。それが基本中の基本であった。にもかかわらず、その確定の際に、ちゃんと関係の機関等に確認をしていなかったのである。私が何かにつけて確認を強く要求するのは、この失敗による経験に基づいている。ちなみに現在では、キャンプなどの際には、各地の教育委員会に行事日程等の確認をしている。
 さて、こうしてうまく日程も調整できたのだが、また一つ大きな問題が発生した。スキーツアーの帰着日と春キャンプの出発日が重なってしまったのである。つまり、早朝にスキーからのバスが到着し、その昼に春キャンプのバスが出発するのである。私や上谷など何人かのメンバーは両方に参加することになっていたので、家に帰る暇もなく、長野から三田へと行くことになった。   <つづく>
号 外


偶然の記録 号外
「関学学習指導会創立4周年を迎えて」

 去る5月1日、関学学習指導会は創立4周年を迎えた。ちびっこ支援センターも創設から3年あまりが経過した。伊東真一、濱村直之、森川隆博の3人の仲間とこの会を作って、はや4年になる。現在では会員もおよそ80名を数えるまでになった。まさかこんな組織になろうとは全く予想もしていなかった。
 この連載ではその4年間の歩みを振り返っているわけだが、やはりタイトルにある通り「偶然」の積み重ねで今日があるといっても過言ではない。たまたま教室の後ろで家庭教師の会話をしたことからこの会は誕生した。たまたま森川が震災後、テレビで映像を見たことにより救援教育センター、すなわち現在のちびっこ支援センターが創設された。たまたま、保護者からの「遊びに連れていってほしい」との電話に「はい」と答えたことからレクリエーション活動が始まった。そのほかにも本当に様々な偶然が重なってこの会はできた。この偶然は奇跡としかいいようがない。この会で数多くの仲間と出会えたのも奇跡というほかはない。私とあなたとの出会いもきっと奇跡に違いない。
 しかしこの奇跡にも秘密があった。奇跡は奇跡を信じる者の上に訪れる。私たちはこれまでの活動のなかで奇跡を信じてきた。ちょっとしたきっかけでも思いは必ず実現すると信じていた。何でもできる環境。何でもできる雰囲気。そんな独特の思想がこの会の根底には流れている。そして、それを支えているのはこの会の徹底した自由な考え方である。全て自分で判断しろ。全て自分で選択しろ。年齢も役職も関係がない。個性において全ての個人は平等なんだ。徹底して他者の意思を尊重しろ。誰も他者に強要するな。自分の判断、選択には徹底してその責任を負え。責任とは反省や後悔のことではなく、最後まで自分の作り出した状況から逃げないことをいう。こんな考えの中で各個人は自分のしたいことが実現できる。もちろんあることがらを実現するためには能力や経験が必要となる。そのときには互いに自分のもっている経験や能力を出し合おう。こうしてみんなの自発的な思いがこの会の中で実現できる。実現できると本当に思っていたからこそ、奇跡は訪れた。
 こんな奇跡の組織に伝統や歴史は必要ない。必要なのは今を生きる人の思い、情熱、夢、理想、願いなのだ。
時間が瞬間の積み重ねであるとすれば、過去もなく、未来もない。ただあるのは今という瞬間でしかない。その瞬間にどれだけ全力を尽くすことができるのか。どれだけ精一杯、生ききれるのか。会の存亡は、まさにそこにかかっている。あらゆる組織はそれが存在する全ての瞬間において最高を目指しすべきだ。最高を目指さず、単に存続だけを目的とするなら、そんな組織はない方がいい。
 もしこの会が偶然によって生まれ、続いてきたとするのなら、失うものはなにもない。ただ目の前にある偶然を逃さないようにしたい。私たちは与えられることよりつかみ取ることを選んできた。選び取ることよりも創り出すことを求めた。チャンスは決して与えられるものではない。チャンスはつかみ取るものだ。失うものが何もないのなら、失敗をおそれずに行こう。前に道は開ける。この会に明日はないかもしれない。しかし、これまで一日一日を過ごす中で4年間の歩みを続けてきた。いま、足下を見つめよう。今日という日を真剣に見据えよう。きっと奇跡は起こる。奇跡は奇跡を信じる者に訪れる。奇跡を信じて、今を精一杯生きていこう。
「将来を嘱望して、現況の発展を怠ることなかれ。」(島 安次郎)

 今回は、本会の創立記念日にあたり、号外として4年間を振り返っての思いを綴りました。「偶然の記録 その6」は、次回に掲載します。
その六


 何かと物議を醸したスキーツアーも無事、終わることができた。人数も全体で四十人余りとそれほど大きな規模でもなく、なんとなく一体感があった。リーダーだけでなく、スタッフも子供全員の顔と名前を覚えることができた。それまで大規模なキャンプが続いていたこの会のなかで新鮮な感覚だった。また、無から一つの企画を作り上げたことにスタッフ、リーダー一人一人が充実感を味わうことができた。無から有を作り出すことができる。これはこの会の源流に流れる一つの大きな動機づけでもあった。このツアーが実現するためには、危険性の問題から始まり本当に様々な乗り越えなければならない壁があった。しかし、その壁を一つずつ越えていくことに達成感や喜びが感じられた。無から有へ。常に新しいものへの挑戦のなかでこの会が続いてきたことを改めて確認できた。
 97年春に行なわれたもう一つのキャンプも新しいものを目指していた。そのキャンプのテーマは「実験」。総責任を務めた浜村は、自分が所属する宝塚青年自然の家の指導員の経験や手法を活かしながら、千刈のなかで新しいものを作りだそうとした。スタッフ、リーダーが一帯となったミーティングによる企画作り。この実験の根幹はここにあった。これまでこの会では、キャンプの企画は主としてスタッフが作っていた。またスタッフの間でもキャンプ内のイベントや役割によってそれぞれ担当が決められ、その分野の事柄について担当者が立案していくという方法を採っていた。これは短時間で、合理的に企画を作るためには非常に有効な手段だった。また、個人に明確な責任を割り振ることにより、その分野において自由に個性や能力を伸ばせるといった利点もあった。しかし、濱村はこの方法に疑問を呈した。これではそれぞれのイベントが個々個別のものとなってしまい、キャンプ全体の一貫性が乏しくなる。またスタッフ、リーダー全員がイベントの細部までミーティングで煮詰めることにより、それぞれの理解がより深まる のではないか。確かにその点はこれまでの会に欠けている点であった。彼のこの投げかけはこの会の流れの中に一つのポイントを作ることとなった。この会とまた別の考えが融合することにより新しい考えを生み出した。
 この会は異なった考えを否定しない。異なった考えの中に新しい道が隠されているかもしれない。だから、この会には様々な経験や経歴を持った会員が集まっている。様々な価値観や動機付けを持った会員がいる。ただそれぞれが違っていても、子供や社会と関わりを持ちたいという、その一点においてのみつながっている。その一点でつながっていれば、他の違いは問題ではない。むしろ違っている方がいい。違った考えや価値観との接触や融合の中で新しい価値を生み出すことができる。この会では他者の価値観を否定するのではなく、認識すること。同意するのではなく、理解すること。説得するのではなく、自己表現することを重視してきた。この春のキャンプでもそれぞれの経験や思いの融合により、新しい方向性を示すことができたように思う。
生々流転。すべては他との融合のなかで生まれ、他との融合により滅していく。ただ、その根底には、決して変わることのないものがあることもまた事実である。
(つづく)
その七


 九七年春のイベントも何とか無事に終わった。そして私は四回生になった。普通に行けば大学を卒業する年次である。それまで目の前にあるイベントのことしか考えてこなかったが、卒業という言葉を意識し始めたとき、その先が気になり始めた。我々が卒業した後この会はどうなっていくのだろう。会を存続させるべきなのか、否か。もし会を残すとしたら誰が後を継ぐのか。もし解散するとしたら、これまできてくれていた子供たちにはどのように対応したらよいのか。これまで考えてもみなかったことが現実の問題として出てきた。五月の定期総会にまでにはそのための指針を示さなければならない。就職活動をしながらそんなことばかり考えていた。そして出た結論はとても明快だった。後輩の中に我々の跡を継ごうと思う者がいれば会を存続させよう。そうでなければ自分たちの手で責任を持って会を解散しよう。そこには「やりたい奴だけがやりたいことをやればいい」という基本的なこの会の思想が表れていた。組織はある目的を持って作られる。しかし組織がある程度続けば、やがてその組織を存在させることが目的となる。そしてそれによって組織本来の目的は忘れられてしまう。これが組 織腐敗の典型的な構図である。我々発起人はこの会をそのような組織にはしたくなかった。だから、本来的な目的を理解し、共感できる者だけでこの活動を続けたいと願っていた。そのために「やりたい奴がやる活動」を重視してきた。今回もこの活動を続けたい奴が続ければよいということになった。
 そして、五月の定期総会がやってきた。ちょうどこの会は創設三周年を迎えた。総会では我々発起人がこれまで続けてきた常任理事という役割を廃止し、全て選挙で選ばれる理事でこの会を運営していくことが決まった。そしてその場で理事の選挙が行われた。七名の定員に対し、倍以上の立候補があった。その中には我々の年代の者だけでなく、後輩達も多く含まれていた。これは彼らが私たちの後を担っていこうという一つの意志表示のように思われた。結果として高見、森、森山などの一回生も理事に当選し、一緒にこの会の運営を行っていくこととなった。私は九月末までの任期ということで、理事長の続投が決まった。総会から九月までの約四ヶ月は、私にとっては今までの総決算でもあった。
(つづく)
その八


 私は九七年五月の総会で理事に再選され、その後の理事会で九月末まで理事長を続投することが決まった。そこで、その夏にこれまでの総決算という形で自分が総責任となってキャンプを行うことにした。場所は本会キャンプ発祥の地、千刈。この会ではこれまで何度となく、千刈でキャンプをやってきたが、私が総責任をするのは地震後、すぐに行われた第一回目のキャンプのみだった。自分自身なかで最初と最後を千刈キャンプでという思いがあった。六月頃から準備が始まった。
 また、そのころ琵琶湖でもキャンプをしようという話が盛り上がっていた。これは理事の重田が所属する同志社大学のキャンプ場を利用して行おうというものだった。下見などをした結果、湖や森などがあり、非常に恵まれた環境だった。ただ我々だけで水泳を伴う企画を実施することに安全性の面から懸念があったが、スキーの時同様、それに相応の対応策を講じるということで、キャンプの実行が決定された。総責任は重田俊征伐となった。 さらにそれとは別に、日本海で地引き網ができるという新聞記事を見た川瀬が、地引き網をしたいと言い出した。それも下見に行き、一泊二日で企画を行うことになった。バスで現地まで行き、テントを砂浜に張り、翌朝地引き網をしようという計画だった。こうして九七年の夏は三つのキャンプが企画されることになった。この会の幅の広さがこうした形で出てきたのかも知れない。
 私は他の二つのキャンプのサポートもしながら、自分のキャンプの準備を進めていった。そのなかで私自身、忘れることのできない出来事があった。それは六月上旬のミーティングでのことだった。私が提案した男女を別の班にし、一班に一人のリーダーをつけるという案に対して、何人かのスタッフが強く反対して、議論が白熱した。それまでは一つの班では男女が混成で、そこに男女一人ずつのリーダーがついていた。それを変えてみようという提案だった。議論は白熱するけれども、特に両者が理解できる方法論もなく、結局のところ、総責任が結論を出し、それにしたがってスタッフが自分の参加の可否をもう一度決めようということになった。その結果、提案に対し、強行に反対していた何人かのスタッフはこのキャンプに参加しないことになった。正直、その時は本当にショックだった。自分自身の提案の内容については特に後悔はなかったが、スタッフへの伝え方や決め方に問題があったのかも知れないと本当に悩んだ。ただ救いはそれらのスタッフが今回の一件と個人的な感情を完全に分けてくれていたことである。だからそれ以降も一緒に活動をすることもできた。とかく自分と意見が違う 人に対して、人は良い感情を持たない。意見に対する反対があたかもその人の人格否定のようにとらえられてしまう。しかし、今回はそれがなかった。今にして思えば、これが本当のプロジェクトのあり方なのかも知れない。徹底して議論をした上で、自分の参加の可否を決める。決して友達だからとか、仲がいいからとかいった個人的な思いだけで参加の可否を決めない。そうしなければ活動上の意見の対立が、感情の対立にまで発展してしまう。この会では、自分が何をしたいのかという主体性が問われる。「自分がしたいから」ということの他に自分の行動の理由はいらない。むしろない方がいい。この事件でそのことを非常に痛感した。
 この一件が教えてくれたこと。対立をおそれず、自分の意見を表明すること。活動上の意見と個人的な感情は完全に分けること。自分の参加は自分自身の意志で決めること。もしかしたらいま、この会で忘れられつつあることなのかも知れない。
(つづく)
その九

 これまで震災以降のちびっこ支援センターの歩みついて書いてきた。しかし、九五年の総会ではもう一つ、この会の今後を決める重要な決定がなされていた。「家庭教師センターの創設」である。
 この会は震災以降、会員からの会費、各企画における繰越金、各種団体等からの寄付などによりその財政がまかなわれていた。しかし、会を運営していくためには、事務所運営費や印刷費、事務費などの諸経費が必要で、その不足分は学生達の自己負担に頼らざるを得なかった。ただ、活動を継続していく上で、財政基盤の乏しい学生達が自己負担を続けていくことには限界があった。それまでも本会発足からの事業である家庭教師事業によってある程度の資金を得ていたが、それも大規模になり続ける支援センターの資金需要には到底及ばなかった。そこで提案されたのが、「家庭教師センター」の創設であった。これは、これまで理事会を中心に運営されていた家庭教師事業を本格的、組織的に行うことにより、効果的な家庭教師事業を展開していくことを目的としていた。そしてその最終的な目標は、本会の運営費を捻出し、ちびっこ支援センターの活動を資金面からサポートすることであった。理事会において初代センター代表に理事森山隆一が任命され、森山によってスタッフが組織された。スタッフは森山と同学年の会員を中心に集められ、私がアドバイザーとなった。これまでも三年あまりの活 動の中である程度、家庭教師事業のノウハウは蓄積されてはいたが、彼らに与えられた命題は、新しく家庭教師事業のシステムを作り直すこと。この会が始まった当初と、震災以降とではこの会を取り巻く環境は大きく変わっていた。資金の使途も単なる組織の維持運営から、被災児童の支援にまで広がっていた。これまでのシステムを知らない彼らだからこそできる作業でもあった。
 彼らはそれから毎週、ミーティングを重ね、議論を重ねていった。キャンプをきっかけに入会した彼らにとって、こうした事務的なシステムを作ることは初めての経験だった。当初はなかなか議論を進まず、行ったり来たりの毎日が続いた。一つの文書、広告を作るのにも、何日もかかった。しかし、着実に前に進んではいた。行動と失敗。失敗と検証。
検証と実行のつながりの中で、彼ら自身成長をしていった。
 そして、議決から五ヶ月が経った九七年一〇月、ついに家庭教師センターは始動した。一時はなかなか結果が出なかった。結果は努力に比例すると信じていた彼らには苦しい時期もあった。あきらめムードが漂ったこともあった。会本部の資金も一万円を切り、事務経費すらも支出できない状況になったこともあった。しかし、九八年になり、徐々に契約数が増えていった。別にこれといってはっきりとした理由があったわけではない。でも少しずつ増えていった。続けていくことで乗り越えていけることがあるのかも知れない。それまでの地道な努力が、実を結んだのかもしれない。よく分からないけど、決してあきらめないことでその結果を生みだした。ただ、事実として言えること。今年、家庭教師センターは五〇件以上の契約を獲得した。収入にして約一〇〇万円。彼らの努力と決してあきらめることのない姿勢が一つの実を結んだ。いま、この成果によってこの会は支えられている。営利ではないが、資金なしではどのような団体も存続することはできない。私たちは資金面での自己完結を目指している。安定した活動を継続すること、私たちの独自性を維持すること。いま、この会はちびっこ支援 センターと家庭教師センターのつながりのなかで活動を続けている。私たちが子どもたちと遊んでいるその背景には、これまであきらめずに活動を続けてきた彼らの努力がある。
 「雨乞いの呪術は誰にでもできる。雨が降るまで祈り続ければいい。」
(つづく)
その十

 なんだかんだ言って、この連載も十回目を迎えた。号外とかを含めると十二回目になる。我ながらよく頑張ったものだ。しかし、いつもながら会報の担当者にはご迷惑をおかけしている。いつも会報の発行が予定より遅れるのは、この連載が原因のようだ。

 さて、九七年夏は三つのキャンプを行うことになった。一つは重田俊征が総責任を務める琵琶湖サマーキャンプ、二つ目は能島が総責任を務めるちびっこサマーキャンプ、そして三つ目が川瀬壮太郎が総責任を務める地引き網ツアーだった。それに九六年から協力関係が始まったブルービーンズショアとの小豆島キャンプが二回行われることになっていた。通算で五回のキャンプをこなすという、実に過密なスケジュールだった。
 琵琶湖キャンプは同志社大学の小松学舎という琵琶湖畔のキャンプ場で行われた。水辺のキャンプと言うことで、安全面など極めて細かい検討がなされた。スキー同様、水泳時などは溺死の危険をはらんでいる。危険を管理すればそれは冒険となり、チャレンジとなる。スキーで得た教訓はここで活かされることになった。このキャンプでは同志社のメンバーも加わり、この会に一層、厚みを増すことになった。またこのキャンプ場は本当に自然が豊富で、蟲たちも馬鹿みたいに多くて、またでかかった。(ちなみに私は上田篤志と同室だったが、あまりの蟲の多さのため、部屋にバルサンをたき、とんでもないことになった。)初めてのキャンプ場だったが、綿密な準備により、事故もなく無事終わった。
 そして、私が総責任を務めるちびっこサマーキャンプも波乱に満ちた準備を経て、当日に至った。前回のサマーキャンプの流れを汲み、子どもの自主性を尊重したプログラムが展開された。メインのプログラムは各班自由に決める。スタッフは独自に企画を用意すると共に、各班独自のプログラムの実施のために、駆け回った。いきなり釣りをしたいという班が出れば、釣り道具を用意し、餌を買いにスタッフが車を飛ばす。そんなことが二泊三日の間、頻繁に行われた。事前に予測して準備ができない分だけ、スタッフそれぞれの考える力が問われた。また、このキャンプでは子ども達に「冒険日記」が配られた。そこには「カブトムシを見つける」とか「布団を自分で片づける」とかいった項目が50かかれてあり、それを達成すればリーダーからシールがもらえる仕組みだった。中には「妖精を見つける」とか「森の音を聞く」とかいった抽象的な項目もあったが、子ども達はその感性でそれぞれの項目にシールをもらっていた。このキャンプでは自分で考えて、自分で行動する ことが子どもにもスタッフにもリーダーにも求められた。何もかもが用意された企画の多い中で、とても新鮮な試みだった。そして、ちびっこサマーキャンプも無事に終わった。
 しかし、一つだけ無事に終わらなかった企画がある。地引き網ツアーである。このツアーは子ども達とバスを借り切り、日本海へ行き、そこでテントを張り、地引き網をして、魚を食べようというすばらしい企画だった。しかし、応募者が二人しかいなかった。再度、告知などをしたが、結局は定員三〇名に全然満たなかった。総責任の川瀬は下見にも行き、千刈からテントを借りる約束も取り付け、準備万端だったが、涙を飲むことになった。この会で初のイベント中止だった。
 こうして九七年夏は幕を閉じた。そして九月に歴史的な臨時総会が開かれることになった。(次回は最終回、乞うご期待。)<つづく>
その十一

 九七年夏は波乱のうちに幕を閉じた。そして九月がやってきた。九月は私が理事長としての任期が終わる月だった。はたして後継者は出てくるのだろうか。キャンプを終えた私の気がかりはそれだけだった。組織は何かをやろうというそれぞれの思いで成り立ち、存続している。後継者をやる奴がいなければそんな組織はつぶれてしまえばいい。理論的にはそう分かっていた。しかし、実際、これまで自分達が力を尽くして作り上げてきたこの組織には正直なところ思い入れや愛着があった。できることなら存続してほしい。それが本当の思いだった。そんな思いの中で、九月にはいろんな後輩と話をした。自分自身の思いを伝え、それぞれの思いを聞いた。そして、その過程のなかで、一人の後輩が理事長をやってみたいと名乗り出てきた。彼とは二人で飲みに行った。いろんな話をした。自分自身の夢や理想から具体的な事務の話までじっくりと伝えた。私は理事長として本当に楽しくて、貴重な体験をしてきた。いろんな出会いがあり、いろんな経験があった。議論があり、決裂もあった。葛藤もあり、気づきもあった。しかし、ある意味において孤独だった。一つの組織の最高責任者として、ある場合 においてはみんなと共に立ち、ある場合においてはそれと対峙しなければならなかった。彼にははっきりと伝えた。「それでも理事長をやりたい?」と私は聞く。彼はためらいもなく「はい」と応えた。西宮北口の居酒屋「安芸」でのできごとだった。
 そして九月の臨時総会が招集された。そこで大学四回生であった私と上谷の任期満了に伴う理事の補充選挙が行わた。その後、新しい理事による初めての理事会が行われ、理事長の互選が行われた。私はその理事会には同席していないので、そこでどのような話が行われたのかよくは知らない。ただ、そこで第三代理事長森山隆一が誕生した。当時、彼は関学総合政策学部の一回生。高校時代からこの会に参加していたとはいえ、かなりの若返りだった。かくして、この会は新しい時代の一歩を踏み出すことになった。
 一つ、この会が目指していることがある。それは社会システムの構築。子どもと学生とのつながりの中で、学生が子どもに思いを伝え、子ども達はそれを感じる。やがてその子ども達が学生になったとき、また同じ思いを持ち、子ども達と接する。それはあたかも循環しているかのように一つの流れを生み出す。その流れこそが社会において一つのシステムとなる。そのことはまさしく会員の中でも成立している。思いを持つ者が、その思いを他の会員に伝え、他の会員はそれを感じ取る。やがてその中に役割の循環が生まれ、一つの流れを生み出す。継続は目的ではない。決して続けるためにやっているわけではない。ただ継続の中に力があるのも事実だと思う。一つの時代が終わり、新しい時代が始まる。その繰り返しの中で、歴史は作られる。

 なんとか会の始まりから森山の理事長就任までを振り返ることができた。およそ三年半の出来事を一年かけて振り返ったことになる。この三年半は本当にいろんなことがあった。いろんなことがありすぎて、まだ自分のなかで整理がついていないこともある。ここに書かれていない出来事も数多くある。しかし、その一つ一つの出来事の積み重ねの中でいま、この会がある。
 次回は「偶然の記録 終わりに」乞うご期待。